右だとか左だとか、やせたとか太ったとか
昔は使っていたけれど、今はもう使わないようにしている言葉がある。
職業上、もっと意識して言葉を使わなければいけなかったのだが、ここ数年でやっとそれに気づいた自分。
右か左かは、言わずもがなで政治についての思想のこと。日本人は政治と宗教の話はタブーというのが通説だったが、いろいろ腹を割って話したい気持ちもあり、単純に人がどう思っているか知りたかったので、あえて自分をカテゴライズして「自分はこっちだけど、〜」という切り出し方で、話すようにしていた。
でも、待てよ。そんなに簡単に人はわりきれない。
知らないことも多いし、わたしのスタンスはもっと多くのことを知ってから決めたい。
カテゴライズすることで、相容れないと線を引くのも引かれるのも嫌だし、相手を説得しようとかされるのも嫌だ。
お互いをカテゴライズして悪くいう争いのようなものを見ても、何か新しい素敵な世界を築くための建設的な作業だと思えなかった。
知人や友人に会ったときによく言う「やせた?いいなー!」という言葉も、今は言わないようにしている。(わたしはやせたいけどね)
それは、ルッキズムを否定し、それをいろんなかたちで表現して闘っている人の存在を知ったから。ルッキズムという言葉を知ったのもついここ数年だから、その新しい概念にドキドキしている。
わたしの家族に太りたくても太れない人がいて、「やせてていいな」という言葉を言われるたび深く傷ついていた姿を見ていたにも関わらず、「やせていること=いいこと」という刷り込みがわたしの中にあった。
でもそれだって単に個人の好みの問題で、どこまでもやせていればいいのか、ある状態は行き過ぎなのか、など誰かが決めることではない。
人をたくさん褒めたいと思っているけど、「あなたの目がキラキラしててうっとりする」ということと「やせててきれい」ということは同じレベルの話ではないんだ。
ルッキズムについて、そんなこと言ったら何も言えなくなっちゃうじゃない?、と思う人は別に今まで通り言っていいと思うよ。傷つく人もいるかもしれないし、いないかもしれない。
でも一度なんだかな、と思ってしまったら、もう後戻りできないってだけ。
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