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哲学を勉強している人とパチモン哲学者の違い -哲学を学ぶ者とは誰か-
はじめに
まず、このブログでは明確に批判対象としているものがあります。
本文をみて頂ければ分かりますが、それは主に、「#哲学」などで検索して出てくる中身の薄い主張を哲学だとしている人、或いは、「自己啓発orスピリチュアル=哲学」と安直に結びつけている人、そして、全く一切哲学書と向きあわず、ブログなどに書かれてある内容だけを鵜呑みにし、イイ感じのことしか言わないパチモン哲学者です。
これらに該当しない人物や事柄は特に批判対象とはしていないので、以下の本文を読んだ後に、過剰に深刻には考えすぎないでください。
昨今の「自分の頭で考える」主義の横暴
「自分の頭で考える」ということが昨今では非常に素晴らしいものとされています。
この点について前々から気になっていたのですが、「「〇〇」という考えは、自分の頭で考えたことなので、これは素晴らしい、尊重されてしかるべきだし、極めて価値のあるものだ」と自分で言えるほど、「あなたの頭は賢いのですか?」ということです。
(言えるならそれで構いません)
この話は主に哲学という領域において、非常に困った事態を引き起こしています。
なぜなら、この手の人達がやってる主張を、そこそこ頭の切れる人が見ると、「あ~哲学って意識高いだけの連中が好きなものなんだな」「哲学って、軽い自己啓発と同じなんだな」とされてしまうからです。
例えばこの手の人達は、「何ごとも気持ちの持ちようでどうにかなる、それが大事」とか「もっと自分の可能性を信じて、そしたら目標は達成できる」といったことを言いがちです。
勝手に自分がそう感じてる分には一向に構いません。なんら文句を言う筋合いはありません。
ですが、それを「哲学」だの「自分の頭で考えた哲学的な見解」だのと言うのなら、こちらも黙ってるわけにはいきません。
哲学という領分において重要なのは、そこで言われている「気持ち」「可能性」とは何なのか? 或いは、その「気持ち」「可能性」なるものは自分でコントロール出来るものなのか?コントロールできるなら、その範囲とやり方は? などを考えていく、
哲学者のジル・ドゥルーズ風に言うなら、問いを創造していくのがポイントとなる、それが哲学の健全な営みです。
そして、その「気持ち」やそのコントロールについて考えるのであれば、過去の哲学者の考察を参照していくのが、ちゃんと哲学にコミットして、従事している者だと思います。
(先の問題について、僕なら「スピノザ」という哲学者の本を参照して考えていくことでしょう)
要は、自分の頭で考えるのでなく、過去の偉大な哲学者・思想家を自分に宿らせて、彼らに考えてもらうというわけです。
哲学者に思考してもらう・スタンドの顕現
よく、「○○という哲学者は〜▽▽と考えます」という言葉を僕も含め使う人がいますが、これは、単に自分の主張を権威付けているのでなく、思考のOSを借りてきているだけなんです。
賢人なら、そんな思考のOSを借りなくても素晴らしい考察ができると思いますが、そんな賢人がわんさかと転がっているはずも無いですよね。
よって、私も含めて、「自分の頭で考える」よりも、「歴史に名を残す哲学者・思想家の思考法を適切に借りる」方がよっぽど鋭く、感慨深い見解が展開可能となる、といった寸法です。
これは、「ジョジョの奇妙な冒険」風に例えるなら、哲学者をスタンドとして顕現させて、その力でものを考えていると言っても過言ではありません。
「スピノザ的にはうんたらかんたら~」というセリフは、空条承太郎が「スタープラチナ‼ おらぁ‼」と言ってるのとほぼ同じです笑
(「Fate」シリーズの「宝具」のイメージでもいいですよ?笑)
そうは言っても、「思考を借りる」というのは、そう簡単なことでもないし、誰でもいいということもないでしょう。
しょうもない自己啓発系の言葉しか使えない人(=本)の思考を借りても、それは、空っぽの思考しかできない。
どこの誰の思考を借りるかは自由ですが、当たりハズレがあり、基本的にハズレが少ないのは、歴史に名を残す古典的な賢人の思考のOSだろうなと思います。
そして、そんな彼らの思考を借りるには、そこそこの情熱をもって、彼らの残したテクストを読み込んでいくしかない、
その哲学書で書かれている思考を自分にインストールしていく、これが非常に重要です。
(なので、最初に「考える」「思考を巡らす」箇所はこの読解における領野であって、問題解決を目指す「考える」「思考を巡らす」は後です)
よって、哲学書を一度も読んだことがない凡人に哲学者は存在しない
「哲学」を語る人間のなかで、ちゃんと「哲学」を学んでる人と、名ばかりの哲学者を見分けるポイントは、その人がどれぐらいの強度で過去の難解な哲学書と向き合い、少しでも正確に自分に落とし込めている(落とし込もうとしている)か否かという点だと私は考えます。
先述の「#哲学」で上位に出てくる人たちが、そういった哲学書を読んでいるとは到底思えません。読んでいたとしても、読み込みの強度が非常に軽薄なパターンでしょう。
インストールという学び、即ち、型作り
そもそも、「哲学」という文字には「学」という字がついているので、ロクに勉強せずにできるようなものではありません。
あらかたの哲学史を頭に入れ、哲学書(の思考)を必死に自分の中にインストールし、そのうえで、自分の考えという部分は勝手に出てきます。
「自分の見解」などというオリジナリティを出すのは、ある程度の「型」を作った後です。
(なので、オリジナリティーを完全に打ち消せ、抑圧しろという主張とは異なります)
料理だって初心者のうちはレシピ通りに作りますよね? いきなり料理初心者がオリジナルメニューを作り出したら、よっぽどの天才以外は大惨事になるのは目に見えてます。
以上のように、ちゃんとしている哲学徒は、まず型をしっかり磨き落とし込んでいる修行者のことであって、間違っても、価値相対的な世の中において何でもかんでも好き放題言っているわけではないということを念頭においていただければ幸いです。
哲学対話はどう位置付けるか?
この話を書いていて、「哲学対話」をどう位置付けるかが自分の中でかなり迷いがあります。
なぜなら、哲学対話は哲学書を読むという哲学的な営みではないし、しかも、自分の考えたことや感じたことを素直に言って、哲学的な難問に立ち向かうというものなので、ここで僕が批判している事柄に当たってしまいます。
しかし、何度か哲学対話に参加してみた自分としては、ここで展開した考察をもとに、「これは哲学的な営みではない」と切り捨てるには、もったいないような気もしています。
ここは、しっかりと考えていかないといけない部分だとは思います。なんなら、安直に切り捨てたくない願望があります。
ただ少なくとも、哲学対話をちゃんと主催できる人たちは、哲学書をある程度でもいいから、読んでいる人だというのは、何だか物凄く大事なポイントな気がしています。
哲学書を一冊も読んでいない人しかいない哲学対話を僕は見たことないです。仮にあったとしても、これは何だかきな臭いタイプの哲学対話な気が正直しています。
予測される反論
以上の点を踏まえても、「いや、哲学書なんか読まなくても、哲学に従事できる」と言った反論をお持ちの方もいると思います。
そんな人たちに聞いてみたいのですが、なぜ、哲学書なんか読まなくても哲学に従事できるとお考えなのでしょうか?
予測できる応答の一つは、「哲学=思考」だからと考えておられるからだと思われます。
哲学というものを定義するうえで、「思考」というものは重大な一要素ではありますが、これだけで定義をしてしまうと、あらゆるものが、「哲学」だということになってしまいます。
セミナーをよくやる自己啓発系講師から、俗に陰謀論者と言われる人、更には、コミュニティーを主催するマルチ商法者まで、彼ら・彼女らは、よく「これが私の哲学(考え)です」的なことを言って、聴講者を奮い立たせます。
これを哲学の一部ですとホントに言ってしまっていいのか?
彼ら・彼女らを、プラトンやカント、國分功一郎や東浩紀といった古今東西の哲学者たちと「やってることは同じ」だと言ってしまっていいのか?
私は到底納得できません。
(この部分に納得できずに書いたのが当ブログになります)
別に、セミナー講師や陰謀論者を貶めたい、哲学より下位の者だとはいいません。
ただやはり、住み分けは重要です。その住み分けを疎かにしてしまうと、「思考」さえ展開されていれば、何でも「哲学」だとされてしまいかねません。
もう一つ先述の、「哲学書なんか読まなくても哲学に従事できるとお考えなのでしょうか?」という僕からの問いに対する応答として、ソクラテスを引っ張ってくることが想定できます。
つまり、「哲学の起源はソクラテスであり、彼は哲学書など読まずに、哲学に従事したのだから、必ずしも哲学に哲学書を用いる必要はないのだ」と。
この応答に対しては、いくつか突っ込みたい部分があります。
まず、この応答をするあなた自身は、なぜ「哲学の起源がソクラテスであり、彼が哲学書を用いずに哲学に従事した」と知ったのか。
当然、プラトンの『ソクラテスの弁明』及び、その他の著作を読んだからですよね?
ということは、哲学書を読み、ソクラテス的な思考を借りての批判だということになりますで、結果的に私がここで述べている哲学徒そのものに該当し、批判している事柄を自分がしてしまっているという支離滅裂な事態を引き起こしますので、説得力を大きく欠きます。
更にもう一つ言うと、定説通りに哲学の起源をソクラテスに置いたとした場合、果たして、ソクラテスが当時において哲学とされている書籍を読んでいなかったどうかは、断定できないと思います。
なぜなら、この当時はまだ、あらゆる学問、つまり、科学や論理学とされている学問が、哲学だとされていた時代であり、こういった科学などの本はソクラテスも読んでいた可能性はあるのではないか、という点です。
確か、『ソクラテスの弁明』において、「アゴラに行けば、科学の本が売ってある」みたいな言及をしており、「その本の主張を私が繰り返しているわけではない」みたいなことを言ってるシーンがあったかと思います。
繰りかえしているわけではないということは、少なくともその本を読んでいる、つまり、当時の科学=哲学書を読んでいた可能性がある。
と言っても、これは憶測の域です。ソクラテスが本当に科学=哲学書を読んでいたと断定することはできません。
但し、裏を返せば、ソクラテスが科学=哲学書を読んでいなかったと断定することもできないというわけです。
以上のように、「哲学書なんか読まなくても哲学に従事できるとお考えなのでしょうか?」という私からの問いには、先述の二つの応答では不十分であり、よって、「哲学書にしっかりと向き合う者」、若しくは、「生まれながら過去の偉大な哲学的思考のOSを身につけていた希少な天才」以外に、「哲学」に従事していると言える者はいないと言えそうです。
最後に注意点
確かに歴史上の哲学者や思想家の思考を精密にインストール出来れば、かなり強力な武器になるのは間違いないと思います。
但し、それは何でもかんでも解決できるようになる「万能アイテム」では決してない。
かなりチートアイテムだと思いますが、それでこの世の全てが分かるというのは、傲慢極まりないので、自重するようにと注意を促しておきます。
(そんな万能薬なら哲学・思想の歴史はとうの昔に終わっていることででしょう)
なので、余裕のある方は、一人だけでなく、二人、三人と偉大な哲学者の思想をインストールしていく営みを続けることをオススメしておきます!
僕も絶賛インストール中なので、是非みなさんも一緒に過去の偉大な思考をインストールしてみましょう笑