我慢したら障害者に(9)私の生い立ち
私の育った家庭は、いつも 嫁姑問題で揉めている家でした。そして 母がネグレクトであることを 大きくなってから知りました。
当時はネグレクトなんて 言葉すら 無かったですから…
子供の頃から 父も母も 自営の仕事に忙しくて 、小学生の時は 土曜とか夏休みとか お昼ごはんがなくて それが当たり前と思ってました。
母は、とても 難しい性格の人で気性が荒く、姉もまた とても気性が荒い人でした。いつも他人と揉めてる人でした。
私は 夕飯がいつも 食べるのが遅いと怒られるので苦手でした。
小学生の頃 祖母と同居しましたが 学校から帰るとうつ向いて泣いてる祖母が振り返ると 瞼に大きなアザが出来て腫れ上がってました。
祖母は母がやったと言い、母は祖母が勝手に転んだと言い、私はどっちを信じたらいいのか分かりませんでした…ただ転んだのを見ていたのに 怪我してるのに 病院につれていかなかったの?と母に不信感をいだきました。
祖母は入院することになり、家を出ました。
また ただいまって言っても返事のない家になりました。
中学生になると 祖母が帰って来てまた一緒に住むようになり、父が先に仕事に家を出ると 毎朝 母の奇声で目が覚めていました。
死ねー!と祖母にさけぶ言葉で目が覚めるのです。母は何故か 熱心に床を磨き上げるようになります。
祖母が転んで骨折して また 家から出ていきました。母は、もう母ではなく 復讐の鬼なんだと思いました。
私の姉も少し変わっていました。
私の姉は小学生の頃 太っていたし、気が強いことで イジメにあっていました。姉との喧嘩は、私が身体が小さく 年子ですがかなりの身長差もあり 父も母もあまり家にいなかったので ほぼ暴力でした。学校で受けるストレスの発散だったのでしょう。髪をむしられたり、火傷させられたり、ワザと爪を伸ばしていて 私を引っ掻くので 手はボロボロになりました。でも母は気付こうともしません。姉の暴力にかなり怯えて 気を使っていました。
中学生の時 不意の出来事でしたが 母がよろっと私の方に倒れてきて 私の鼓膜は破れました。まるで 水中にいるように 声や音が聞こえなくなり 耳鼻科に連れて行ってくれました。鼓膜が破れてると診断されると ヤブ医者だから、もう通院しなくていいと言われました。そして この事は 父には言わないように口止めされました。
田舎で近くに耳鼻科がなかったので 母が連れて行ってくれないと もう病院に通えません。私の耳は 人の話は 聞き取りつらいままになり、自分で通えるようになってから 通いましたが 手後れでした。
母には 怒ったように 謝ったでしょ!と言われたので もう聞こえづらいとは 口にしなくなりました。聞こえる人にはわからない 辛さをずっと抱えていく事になりました。
母がとても 嬉しそうで褒めてくれたのは 最初の結婚が 歯科医だったからです。母のためにも努力しましたが 耐えましたが だめになった途端 見下され 私は 嫌がらせをする対象になり 痩せていきました。痩せたら 気持ち悪いといわれました。母と姉の嫌がらせに 最初の自殺未遂をしています。
とにかく 母と姉から逃げたかった…
誰かとお付き合いしても 友達と仲良くしても 相手の家に電話をかけて 結華とお付き合いやめてくださいと言い ことごとく 人との接触を遠ざけられました。母も姉も友達がいなかったので、友達は 子育てに必要じゃないでしょ?と言われました。
娘とアパートでお風呂に入ってたとき 姉からの電話にすぐ出られず そしたら 姉がアパートまでやってきて 調子乗ってんじゃないよ💢と殴られました。 なんでそこまで、されなくてはいけないのと思いましたが、姉も母子家庭で私に 姉のふたりの子どもたちの父親代わりを望んでました。姉は当時働いておらず 私には働きに出ていいと言い、娘の面倒見てあげるからと言われ、姉に僅かながらお礼としてお金を渡していました。
誰かと付き合うとなると そのお金を投げ付けられ 土下座しろ!したら 娘の面倒も仕事の間見てあげるからというので 土下座しました。
でも みるわけないだろ!と罵られただけでした。屈辱でした。
再婚相手は 私にとっては都合の良い人だったんです。ご両親がいないのは 迷惑をかける人がいない この出会いは運命なのかと思ってしまったのです。
それでも サザエさんみたいな家族に憧れてた私は 家族からの愛情はわからなくても お手本にしました。また 家族の愛情を知らない年下の元旦那にも 私が家族教えてあげるよと見栄を張りました。
私は 寂しさは人一倍知ってても 愛情を知りません。結局は 元旦那も良い人ではなく 更に全てを奪われましたが
普通の家族って どんな感じですが?
家の中で 身構えなくていいって とても居心地はいいものですか?
無償の愛って何ですか?頑張ったらわかると思っていたのですが 奪われる嘘の家族しか私は知りません。明日何が起きるかわからない恐怖で特発性過眠症になり、記憶は途切れ途切れ つなぎ合わせるので精一杯。自分が自分でなくなったような、わからない怖さを元旦那は私にプレゼントしてくれました。
それでも 人に優しくなりたいと信念を持って生きてきましたが まさか 自分が悪者のように書かれた 元旦那の自己破産の裁判所の決定には、号泣しました。
人って残酷ですよね
子どもたちは それなりに立派に育ってますが、本当の意味では、私を助けてくれることはなく 無理にでも進学を望むので お金が掛かり 私は心療内科で母親を辞めたいと言い続けてきました。駄目な母親ですよね…
私が実践した理想の母は、沢山 抱っこしてあげること 沢山ほめてあげること 子供が本当に困ったときには命なんか、惜しく無いと 娘のストーカーとも話したりしました。伝わったかな?私の理想のお母さん。
最後まで読んでくださり有難うございます!
次は 入院して 私が見た世界についてです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?