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「空の走者たち」 増山実
「死んだ人の記憶と生きている人の記憶は、そうやってどこかでつながっているんだ。」
「空の走者たち」 増山実
2020年、東京オリンピック。
女子マラソン代表、3名が発表された。
その1人が、円谷ひとみ。
記者の田島庸介は、原稿に次のように書いた。
「奇しくも五十六年前、東京五輪のマラソン代表として円谷幸吉の名が読み上げられたのも、今日と同じ四月十八日、山の上ホテルの会見場だった。」
円谷幸吉と同じ姓の円谷ひとみ選手が、2020年の東京オリンピックに選ばれるところから、この物語がはじまります。
しかし
時系列どおりに、物語は進んでいきません。
ひとみはずっと陸上をやってきたわけではなく、
一度、陸上を辞めてしまいました。
物語は高校生の頃のひとみへと、さかのぼります。
ひとみの親友に陸上が大好きで、
その能力があったユカがいました。
ユカは東北の震災の影響で、福島県須賀川市から兵庫県の宝塚に引越すことになりました。
そのうえ
ユカのお母さんが病気により、介護が必要となり、ユカは泣く泣く陸上を断念したのです。
ひとみの心は、揺れに揺れます。
「ユカを、越えることができない!」と感じて陸上を辞めてしまったひとみ。
泣く泣く陸上を断念したユカは〝ひとみの陸上再開〟を望みますが、ひとみはユカの思いに応えることができませんでした。
しかしながら、ひとみの心は陸上に対して、マグマのような血流が沸き立っていたのです。
ユカから届いた手紙に、こんな一言がありました。
「死んだ人の記憶と生きている人の記憶は、
そうやってどこかでつながっているんだ。」
「死んだ人」という言葉に思い浮かんだのが、同郷(福島県須賀川市)の東京五輪・銅メダリスト、円谷幸吉でした。
ひとみは「円谷幸吉メモリアルホール」に足を運びます。
この物語を読むまで、僕は円谷幸吉という名前は知っていましたが、マラソンの人くらいの知識しかなく、東京五輪の銅メダリストだったことも知りませんでした。
のちに、自殺したこともこの本で知りました。
読んでいくうちに、僕は円谷幸吉という人物に惹かれていきました。
メモリアルホールには、幸吉の遺書が展示されています。
近親者やお世話になった人の名前のあとに、お礼と短いメッセージが添えられていました。
最後に
「父上様母上様 幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許しください。」
僕はこの遺書を読んで、幸吉の重圧と自身の限界を知りました。
幸吉は、東京オリンピックで力を出し尽くしたのでしょう。もうこれ以上は
走っても走っても、レースで成績は出せないと。
しかし
次のオリンピックへの期待が、幸吉に圧しかかります。幸吉の中では、もう走る意味さえなかったのかもしれません。
ひとみは、東京オリンピックのVTRを見ました。
そこにはゴールした幸吉が、ある一瞬だけ空を見上げて笑顔を見せました。その笑顔にひとみは心を奪われます。
幸吉の見上げた視線の行方に、何が映っていたんだろう?
ひとみは国立競技場に足を運びました。
その日はたまたま、競技場の開放日で、トラックを走ることができました。
ひとみは幸吉と同じトラックに立ち、スタンドを見ます。
意外にスタンドは、小さく見えました。
ひとみは走ります
風を追いかけ
ゴールしたあと、芝生に寝ころび
空を見上げます
ひとみは感じました。
スタンドが小さいのではなく、空があまりに広いのだと。
またここに来たい!
またここに立ちたい!
そのとき
ユカの声が聞こえたのです。
「ひとみやりなよ。」
◇
八月は死者とめぐりあう季節。
ひとみの家では、特別な意味がありました。
ひとみの家はレコード屋をやっていて、ひとみのお父さんとお母さんは、歌手の故・坂本九さんの大ファンでした。
お母さんがお父さんと結婚する前、お母さんが坂本九の生前最後の曲「心の瞳」という歌のレコードを買いに来ました。それがきっかけになり、2人は結婚することになりました。
生まれてきた娘の名前は、この歌からひとみと名付けられました。
レコードを買いに来た2ヵ月後、8月12日に日航機墜落事故が起こりました。乗客だった歌手の坂本九さんは亡くなりました。
毎年8月12日に、お店で坂本九の歌をかけました。
そして
ひとみの家には〝九ちゃんが帰ってきました〟
ひとみは須賀川の花火が「死者の魂を鎮めるためのものなんだよ。」と聞いたことがあります。
よく盆明けの須賀川の花火大会に、ひとみはユカと一緒に見に行きました。
ひとみは花火大会の日、たったひとり花火を見ることにしました。ユカとの秘密の場所=清水湯(銭湯)の裏の路地をすり抜けたお不動さんのある場所で。
ひとみの心の奥底には、いくつものもやもやとしたかけらが漂っていました。
ユカ
陸上
タイミング
花火
死者の魂
空
すると
ひとみに不思議なことが起こります。
時が歪んだのです。
どうやらこの場所は、時空を越えることのできる場所のようです。
ん???
とそのとき、僕は考えてしまいました。
それは
前作「勇者たちへの伝言」でも時空を超える場面があったのです。
また、同じなのか?
と読み進めていくと
今回の時空の超え方は、不思議な超え方なんです。
本当に、時空を超えたのか???
「魂」とありましたが、魂だけが時空を超えて、必要なインスピレーションだけが、ひとみにあたえられたのかもしれません。
ですので、従来のタイムスリップのような設定ではなく、魂だけが時空を超えて交流したんだと。
交流した人とは、憧れの円谷幸吉。
ひとみはステキなタイミングで、
円谷幸吉に辿り着きました。
ひとみは幸吉に東京オリンピックで、
なぜ、空を見て微笑んだのかを聞きます。
「幸吉さん、あの時、走りながら、何を見上げていたんですか。
あの空には、何があったんですか」
「その答え、どうしても知りたい?」
「それは、明日いっしょに走ろう。」
「その答えがわかるかわからないかは走ってからだ。」
幸吉はひとみに言いました。
翌日、幸吉といっしょに走るひとみ。
ひとみは、幸吉に必死でついていきます。
幸吉と走りながらの会話。
「レースの中にも、必ず苦しいときがある。自分のペースで走れない時が必ずある。
しかし、自分の『時間』が来る時も、必ずある。それまで、レースを捨ててはいけない。要は、タイミングなんだよ。」
幸吉はひとみに、走りのフォームの欠点を的確に指摘、アドバイスしました。
「ひとみ、昨日、ぼくに訊いただろ?
あの東京オリンピックのレースの途中、
空を見上げた先に、何があったのかって」
幸吉は指を差して言いました。
「あの空なんだ」
須賀川の町の上に、青い空が広がっていた。
ひとみの思い。
それは憧れだけではなく、同じ場所に立ち、空を見上げ、同じ空気を吸い、志や考えを時代を超えて共有したからこそ、ひとみに幸吉の魂が宿り、会話=インスピレーションができたのでしょう。
私たちが歴史を辿って、インスピレーション=息を吹き込まれる、というのもこれに近いんじゃないでしょうか。
魂と魂の交流は、ひとみに影響を与え、2020年の東京オリンピックに出場させました。
この物語の主人公・円谷ひとみと実在の円谷幸吉をメインに、あらすじ・感想を書いてきましたが、本書は円谷英二をはじめとした須賀川の人たち、歴史上の松尾芭蕉、坂本九、そして、幸吉と熾烈なデッドヒートを展開したシュトー・ヨーゼフ等、たくさんの人間が絡み合います。
とくに、シュトーと幸吉のお互いの空気感や想いには、とても感動しました。筆者の増山実さんがハンガリーでシュトー氏を取材しているので、その臨場感が味わえます。
物語は
須賀川の空と、フィクション、ノンフィクションさまざまな事象、人物が複雑に絡み合って、一つのゴールへと向かいます。
ゴールしたあと、円谷幸吉が見上げて微笑んだ須賀川の空が、心の中に青々と浮かびました。
【出典】
「空の走者たち」 増山実 ハルキ文庫