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「お前の発言って情報量ないよね」

発言や論文などの価値は、情報量と正誤にある。これは、久しぶりに他者から投げた刃が返ってきたことで気づかされたことである。

「極端に断定する主張が多いから、あなたの発言には誤りが多そうだよね」

という私の指摘に対して、私が尊重するほどに評価していなかった彼はこう返した。

「君のいう事は、様々な事柄の可能性と事象の言及であって、情報量がなく、意見がないよね」

このカウンターは私の彼の評価を上げ、私を揺らし、先程の気付きをもたらした。


何か言及するとき、あるいは何かを論じるとき、そこには情報量がある。明日の天気は晴れである。その情報量のある断定を使って、洗濯物をいつ干すか私は決定する。

一方で、その言及は誤りであることがある。それは急な通り雨があったり、そもそも明日一日中雨が降っていたりすると、言及は誤りである。この意味で、正誤がある。この不確実性は、びしょ濡れの洗濯物も生み出す。

何かを断定して言及することは、正誤を誤るという不確実性をもちながら、発言に情報量を与える。


最初に投げた私の刃は、それを投げてもいいという関係性の深化の裏返しであった。ドライブの帰り道のこの言及は、発言をしても関係性からまあいいだろうという無意識の判断である。

ただそれは、承認の意味でしかなかった。尊重はするものの、尊重して交流するほどの価値はないと感じていた。ただ、的確なカウンターに対して、交流せざるを得なくなった。

この交流する尊重があるべきかの判断において、先入観があってはならない。この先入観は、情報量のある他者と交流したとき、その事前の情報を覆す交流が発生した場合、その目の前の事実を前の情報によってゆがめてはならない。


また、言説の価値を持たせるためには、知らなければならない。情報量のある正しい断定をするために知識を持たなければならない。

その慎重さは、自己防衛反応として利用してはならない。

言説の価値

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