見出し画像

なぜ人を殺してはいけないのか?

なかなか物騒なタイトルですが、私が人に対して殺意を持ったわけではありません。偶然なのか、必然なのか、この疑問にまつわる出来事が私の周囲でありました。

一つは、職場での会話でした。自由な雰囲気で様々ものを語れる環境で、私が話をしてもいいなと感じる人と接していました。年上である相手は、私より法律に精通していたので自然と話は法律関係に流れていきました。

「心神喪失とされる人が、殺人を犯したときに何故無罪になるのか?」

その人は、この疑問に対して反語的な感覚を持っていて、「有罪にすべきだ」と主張したいようでした。すごく人間的で素敵だなと小さなドラゴンである私は感じました。

もう一つは、公募ガイドにおけるドラゴンの特集でした。作家の平野啓一郎さんはインタビューの中で、文学の外の世界にいる人々に「なぜ人を殺してはいけないのか?」と問いかけたり、答えようとする文学を届けようとしないことに苛立ちを覚えているようでした。

後者において直接的なのですが、両者において共通していえるのは、やはり「人は殺してはいけない」ことです。この二つのキッカケを通して、「なぜ人を殺してはいけないのか?」一度文章にしておいていいなと感じたので書いてみましょう。

こうした文章は文学的に書かないと、説教くさくなるので、物語としても後日書きたいと思います。

人を殺してはいけない理由は「ない」

自分としては納得が言っている回答なのですが、多分世間一般には受け入れにくいような気もしています。なぜなら、人が人を殺していけない理由が「ない」と主張することは、殺人を肯定していたり、容認しているように聞こえるからです。

しかしながら、殺人の肯定や容認を私はしません。人が人を殺していけない理由が「ない」と主張することは、殺人を肯定していたり、容認することではなくて、それとは別次元に存在することだと考えていて、むしろ理由を定めてしまうことが、そうでないときの殺人を容認しているような気がします。

例えば、ナチスドイツ。彼らは「ユダヤ人でないこと」を人を殺してはならない理由としました。結果彼らがやったことは、歴史が証明している通りです。

他にも、太平洋戦争における日米の戦いを見てみれば、彼らは「自国民であること」を人を殺してはいけない理由の一つとしました。結果、アメリカと日本の戦後の関係性はあるものの、広島や長崎の原爆をはじめとして両国の戦死者をもたらすことになります。

これらの点を踏まえると、人を殺してはいけない理由を定めることは、ろくなことがないように感じます。なにかいい定め方があれば教えてほしいですけどね。(そして、ありそうな気もするけど)

では、人を殺してはいけない理由が「ない」としたら、なぜ人々は「人を殺してはいけない」と感じるのでしょうか?それは次の思考実験に現れます。

なぜ魚を殺してはいけないのか?

実は私、カツオのたたきが大好きなのですが、その過程においては、カツオという一匹の魚の命を絶っています。魚を殺すという行為自体がある以上、「なぜ人をを殺してはいけないのか?」といった疑問がわくのであれば、こう思ってもいいはずです。

「なぜ魚を殺してはいけないのか?」

第一感として、人を殺すことと魚を殺すことの間には、大きな差があるように感じます。前者はものすごく大変酷いことのような感覚、後者は日常にあふれているような感覚です。

しかしながら、仮に人を殺してはいけない理由が「ない」としたら、魚を殺してはいけない理由も「ない」はずです。

魚を飼うという体験をすると、リアリティのある話になるような気がします。水族館でもいいのか。水族館にいる魚たちを、次々と殺していく姿を想像してみれば、人を次々と殺すまではいかなくとも、なんともいえない気持ち悪さを感じるような気がします。

ここまでくるとある仮説が浮かんできます。

なぜ人を殺してはいけないのか?と聞かれれば、その理由は「ない」が、人が人を殺さないことを大切にしたいと感じたから。

一見、矛盾しているように感じるのですが、これでいいと感じています。

刑法において、殺人罪の規定があることも、ここに集約されるのだと感じています。人々が紡いできた長い年月の中で、「同じ種族である人を殺さないこと」を大切にしたかったのでしょう。

実際歴史を見てみれば、同族意識の高い相手を殺すことは少なかったと感じています。(そうした人殺しが後世にまで残ってないというのはあるでしょうけれども)人々が人を殺す戦いをするときは、同じような地域で同じような人々が同じような考えての下戦いを始めているようです。日本の戦国時代しかり、近代の帝国同士の戦争にしかり。

また、法律でもその傾向は見られます。例えば、尊属殺人重罰規定。これは平等というもう一つの人間の価値観の下書き変わりましたが、家族を殺すことがそうでない場合よりも重罪とされていたのはやはり、自分に近い人間を殺さないことを大切にしたかったのでしょう。

法律にかかれていたとしても、人が人を殺してはいけない理由は実は「ない」。その上で、人々は人が人を殺さないことを大切にしたかったから。と答えるのが一番自分の中ではしっくりくるようです。

どんな作品を書こうかな

なぜ人を殺してはいけないのか?こう問いかける作品は、それが許されている世界を書くことが早いでしょう。北斗の拳なんかはまさにそういった「世紀末」なのでしょう。(スロットを打っただけで、作品を見たことはありませんが)

そういった極端なパターンで書いたほうがいいのかもしれません。

あと2500字で書くテーマなのかも迷ってます。10000くらいいるのかな。2500くらいだと一つの場面で終わってしまいそうな気もします。

この文章を読んでくださった方が、実は私たちが大切にしているものは壊れやすいんだなと感じてくれれば幸いです。

そして、いい社会を生きるドラゴンとしては「人を殺さないことが大切なんだなって感じる人が多い世の中であってほしいな」と感じます。

そういった世界が続くことを願って。

よろしければnoteのフォローとスキお願いいたします。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?