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「私」という私について

私は不器用な人間です。
手先は人並みに器用かもしれませんが
私は私を理解できません
今私は誰の人生を歩んでいるのか
わからないのです。
普段は論理的で合理的。
リーダーシップと責任感を持ち合わせた、いわば頼りになる人なのかもしれません。
司令型と呼ばれるタイプでありながら、夢を持ち、着実にその夢に近づこうとしている19歳の大学生の一人にすぎません。

「本当にそうなのだろうか」とふと思うことがあります。
私は私の人生という絵を描いているのか
私は描くべき私の人生を描いているのか
夜になると、
寂しくなると
そんなどうにもならないことが
頭から離れないのです。

論理の枕木が剥がれ落ち、今私はどんな人間なのか、どんな生き方をしたいのか、
何が幸せで、何が不幸せか
何のために生き、死にゆくのか
を見失うのです。
故郷を離れ、愛する人達と家族に「さよなら」を言ったとき
私は、かつての私にも「さよなら」を言ってしまったのでしょうか。
苦しさ、悲しさ、寂しさをうっとりと眺めてしまう時、
私には、それが言葉にならないほど、美しく見えるのです。
そう見える私のことを私は「私のための私」と呼んでいます。
そして希望に満ち、一歩づつ夢に向かう私を「社会のための僕」と
「私のための私」は呼んでいます。
この二面の私は、ゆっくりと、貝殻も、砂も、潮風も巻き込んで、
一緒に押しては返しているのです。
月が上ると引力でそのリズムが大きくなります。
月が上ると、「私のための私」が咲くのです。
そんな「私のための私」が死なないように、
その風を、匂いを、色を枯らさぬよう、ここで水を与えてやれればと思います。
そう、これは「社会のための僕」への、ささやかな毒針なのかもしれません。

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