なぜ怒ってしまうのか。分解するとわかる「怒りの階層化」を言語化する
はじめに
ここ数ヶ月、ものすごく怒りっぽいので、ちゃんと分析してみた。
どうやら怒りには構造上の原因と階層がある。
怒りとは何か?
怒りとはなにか。
怒りとは「思った(理想)とおりに行かないときの感情」である。
つまり、描く理想があり、その差分で生まれる感情こそが「怒り」だ。
怒りっぽさと怒りの強さの定義
では怒りっぽいとはなにか。それは「理想の数が多い」が関係する。理想が多いほど、理想と現実のギャップが生まれやすく、怒りが湧くきっかけが増える。
では、怒りの強さはなにか。それは「理想との差分の大きさ」である。ここで気づくことがある。怒りの強さは、理想との差分の絶対値なのかもしれない。
怒りを理解し活用する
視点を変えて怒りを見ると強みになる。
怒りっぽいことはきっとネガティブに見える。実際にネガティブだ。当人は心地よくないし、周りは萎縮する。
しかし、「理想との差分」に敏感な人と思えば意味が変わる。「理想を描ける人」だからだ。つまり、怒りが強く多い人は「理想が多く、解像度高くリアルに見えている人」と言える。
怒りをどこに向けるべきか?
強い怒りは人を弱くする。自分に向ければ自己批判となり体に毒を回す。他者に向ければ、他者批判となり心理的な傷を与える。
では、怒りをどこに向ければよいのか。それは「コト」と「仕組み」だ。何故ならば、怒りはある文脈の中で起きることだからだ。人が思いつく理想とは「その人が生きる、ある限定的な環境下における理想」つまり限定的な文脈における理想だ。 環境が生む文脈は「そこにあるコトと仕組み」から発生する。だから「コト」と「仕組み」を変える原動力として怒りを利用すれば良い。
怒りの階層と各階層での行動
怒りを分析していくと階層が存在するように思える。それは以下の通り。
反応の層
イラッとしたり、愚痴ったりするときに触れる層だ。
ただ怒りに翻弄されている。能動的に怒りに向き合う必要もなく、技術のいらないもっとも簡単な層だ。
問い
「何故、自分は怒っているのか」問う層だ。
これは自分を疑うことに気づいた人が到達する層だ。これから始まる怒りの旅の入口になる。
前提の認知
自分の前提、当たり前、理想に自分で気づく層だ。問いに対する答えに相当する。
「私はこれが当たり前(もしくは理想)と思っている」を自分で認識する。自分を疑うと様々な解釈を得られ、自分を他者として捉えられるようになる。自分に問いを立てられるようになった人がここに到達する。
環境の認知
自分も他者も異なる世界に生きていることに気づく層だ。
自分を他者と捉えると「他者」がよく見える。何故ならば前提の違いを認知できるようになるからだ。
周りの人間と自分に与えられる裁量やリソースを環境と呼ぶならば、それらの流れや違いは文脈を生む。
文脈の違いは個々人に見えている世界の違いを示す。誰ひとりとして全く同じ文脈を生きる人はいないからだ。環境と文脈を認知すれば「自分も他者も異なる世界に生きている」ことに気づける。
変化の認知
自分を自分で変え、壊していけることに気づく層だ。
ここから先は厳しい旅だ。
何故ならば、能動的に自分を壊すことができる人だけが到達できるからだ。環境が認知できると「自分の世界と相手の世界の隔たり」が見えるようになる。理想とのギャップとはこの「世界との隔たり」を指すのだ。相手に期待はできない。でも、だからこそ怒っているのだ。
私が変わるしかない。そう、私が変わるしかないのだ。
これまでの私を破壊し次に進むときに訪れる層である。
作用の層
自身の変化が「環境に作用」していく際に訪れる層だ。
私達は関係性と相互作用の中に生きている。能動的には変化を起こせば理想に近づくことができる。
個の変化は環境への作用を生む。環境の変化は個への作用を生む。
それでも、また「反応の層」に戻っていく
それでもまた私達は怒ってしまう。
何故ならば起こした変化はその直後に「当たり前」になるからだ。
怒りとは現状と理想のギャップだ。現状が更新されたとて、それは「新たな現状」だ。怒りがなくなることなど無い。
だからこそ、常に人に目を向け、怒りを向けるのではなく、コトに目を向け「環境への作用」に還元することが大切だ。
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