不気味の谷化する〈性〉と〈政〉 『プラータナー 憑依のポートレート』
ウテット・ヘーマムーン原作、岡田利規作の演劇『プラータナー 憑依のポートレート』。タイの1人の男の半生を描いた物語。
先日観たこの演劇の体験が凄まじく、暫くそのことに囚われてしまっていたけど、もうそろそろ落ちつかせたいなと感想を書いてみる。
感じたテーマを勝手につけるなら、「不気味の谷化する〈性〉と〈政〉-想像力は"あなたの物語"に辿り着けるのか-」みたいな感じ。
これを考える為には、まずこの作品について以下の様に整理といけない(じゃないとたちまち迷宮に迷い込んでしまう)。つまり以下の様なものだ。
⒈岡田利規の演劇について
・演劇モダニストとしての岡田
…チェルフィッチュ主宰の岡田利規の演劇とは何か、それは本人含めた非常に多くの言説があり、端的に言って手に負えないのだけど、もし勝手な発言が許されるのであれば、それは「演劇だから出来ること」という、ある種純粋な動機に駆動されている様に思う。それでは、演劇とは、演劇だから出来るとは何か?
岡田演劇作品の特徴とは(またこれが手に負えないものだが以下略)、「今ここにいる身体(現実)と物語(虚構)を同居させるというマジカルな状態を作り出す」と言えるかもしれない。どういうことか。
・演劇における現実と虚構
今回の演劇では、最初から最後まで、役者が一人として舞台の袖に消えることはない。では何をしているのかというと、自分以外の人の演技を観ているのだ。ビールでも飲みながら。そして、自分の番になれば、おもむろに立ち上がり、演技をし始める。終わるとまた観客に戻る。演者だけではない、音響や小道具、演技指導のスタッフまで舞台に剥き出しになったまま物語は進む。
今、目の前にいる人間が、突然、自分以外の人格になりすまし、会話し身体を動かしている。日頃よく見る日用品を組み合わせて、あたかも違う時空にいる様に見せかける。当たり前だと思えるが、それが如何に奇妙な事か、岡田はカラクリをみせながら物語を作り出す。
象徴的なのはセックスシーンだ。ここでは性交を服を着たまま相撲の様な身体のぶつかり合いで表現している(コンタクトゴンゾ)。これは映像作品であればこうはいかない。裸になり、大事なところは見えないまでも「本当にやっている」様にみせる。
逆に、演劇の舞台で「本当にやって」みせたのなら、かなりの違和感がある。それは何故だろう。
繰り返しになるが、それは、現実の人間が虚構の物語を演じており、それを観客も分かった上で没入している、その共犯関係と補完力が働いている場が演劇だからだ。
・共犯関係、見立て、抽象
その共犯関係と補完力は、ある種の抽象性と見立てが呼び水になる。例えば、ここに四角い箱があるとして、「箱の上に人が座ったので、これは椅子」「持ちながらドアの前でチャイム鳴らしてるので、宅急便の荷物」と、場面や状況によってその箱の見え方が変わる。人も同じように、「さっきは先生だったけど、呼ばれてる名前違うので、別の人になった、ということなんだな」と。だから、そこに余りに生々しい現実が入ってしまうと、その抽象性と見立ての機能のバランスを脅かしてしまう。
演劇にマジックがあるとしたら、それは現実世界に虚構を並列出来る奇跡のことだ。岡田はそのカラクリを全てみせる。でもカラクリを知ったとしても演劇のカタチは全く崩れない。それだけ、この見立てと共犯関係の力は人間に強固に埋め込まれている。そう、これは演劇だけではなく、私たちの日常生活でも起こっていることなのだ。日常こそ演劇なのだと。岡田は最終的には、それを突き詰めたいのではないか。このことについては結語に書きたい。
岡田は、そんな演劇のメディウムスペシフィックを突き詰める、ある意味でのモダニストと言えなくもない。そんな彼が、今回は何故、他人の、しかも小説を演劇にしたのだろうか。それについて考える為に、ウティットの小説についてみていかなくてはならない。
⒉ウティット・ヘーマムーンの小説について
・国家を身体と欲望で捉えること
ウティット・ヘーマムーンは1975年生まれ。東南アジア文学賞を受賞した、タイ文学の最前線を走る小説家だ。、、と書いたところで筆が止まってしまう。何故なら、彼の作品は日本語訳したものが少なく、僕も今回の小説が初めてのウティット作品だ。なので、この小説家や小説については、本書と少しのサブテキストに頼らざるを得ない。情報不足を自覚しながらも進めていこう。
この小説のあらすじはこうだ。1人の男の半生の物語。舞台は現代のタイ。1991年に軍事クーデーターがあり、1997年アジア通貨危機と国王憲法、その後の好景気、ポップカルチャーの流入、SNSの流行、赤服黄服のデモ、そして排除、2016年国王の死去。そんな時代。
その中で、主人公は、美大を目指し、詩人に惚れ、大学の制度に反発し、性に没頭し、社会人としてだんだん美から離れ、愛する人を失ったりして年を取っていく。彼は政治への関心はない。極めて個人的な問題に向き合い続けている。しかし、政治や社会情勢は、否応なしに彼に人生に降りかかってくる。
例えば、惚れた女性陣は軍事政権への反発デモの実行者で、主人公も彼女と一緒に居たいがためにその活動に参加してしまう。彼が30歳の時愛した青年と撮った性的な動画がネットに流出してしまい、青年は自死してしまう。2016年に関係を結んだ少年は、政治的立場の違いによってすれ違い悲劇につながる。
・性欲と愛、好景気と政治の季節、その分けられないもの
それだけではない、国家もまた、あたかも人間の身体を持ったかの様に描写されるのが、この本の大きな特徴だ。タイ王国では、昔から国家を身体に見立てた思想があるという。王は魂/王侯貴族は両手/軍は足/民衆は数々の武器、、、身体があるのであればそこには欲望も愛も存在する。国家の欲望とは何か、愛とは。主人公はあたかもそれに憑依するかの様に考え行動していく(主人公の名前はカオシン=憑依の意味)。この、国家と主人公の人生が同期していく様子はしかし、いわゆる全体主義的なものではなく、よりグロテスクなものとして表出される。タイの政権交代は近年めまぐるしく、それは、性的趣向の変遷、恋人の出会いと離別、子供の堕胎などにも見立てられる。
この小説は、個人と国家の欲望の間隔を引き寄せ、そのどうしようもなさを露呈させる。ウティットは、どうしてこの様な小説を書いたのだろうか。
・小説の持つ、個人体験と他者共有の併存機能
そもそもなぜ彼は小説家になったのかを知りたくなった。それには非常に具体的な状況が横たわっている。まず、タイでは美術家としてはほぼ食っていけない状況だそうだ。日本と同じく美術家の道は厳しい。映画監督を目指したが、映画を作ろうにも莫大な費用が必要で自分の世界を作るのは困難、諦めた。残されたのは、パソコンさえあれば世界を紡げる小説の世界。この選択自体が社会からの影響を受けた批評的な選択といえなくもない。がしかし、もうすこし踏み込んで考えてみたい。性と政の混濁を描くメディアとしての小説について。
小説とはなにか。暴力的に整理することが許されるのなら、それは「読み手の記憶のパーツを素材に脳内にイメージを作り出す機能を持ったメディア」だと言える。そしてそれは、読む人個人だけが観ることができる共有不可な体験だ。にも関わらず、物語としては同じ本を読む他者と共有している。あの本を読んでいるということは、あの物語を共有していると思うことができる。そんな一見奇妙な現象がいつも起こっているのが、小説体験と言えるのではないか。
これはそのまま〈性〉と〈政〉の関係に当てはめることができる。個人と集団社会が同居する状態。ウティットが描く主題は、そのまま小説のメディウムの特徴と同期しているといえる。それだけではない。彼は、タイで文芸批評誌の編集をしていたが、それは国家の検閲への抵抗として位置づけられていた。
そもそも個人と集団社会とは本来繋がっているものだが、今はその回路が見えづらくなっている、もしくは見せない様にしている。ウティットは、そんな本来繋がっているはずの個と集団、〈性〉と〈政〉の回路を繋ぎ直し、混濁させる。小説のちからによって。
・演劇と小説が、岡田とウティットが交わるとき
そんなウティットが、今回どうして岡田と組んだのだろうか。それは岡田からのオファーがあったという事実はあるが、ウティットもまた、小説からはみ出す創造性への欲望があったのだ。それは、インターメディア性、そして物語と現実の混濁への欲望だ。
ウティットは、今回の小説に合わせ、絵画の展覧会を開催している。ただし、作者名はカオシン。つまり小説の主人公の展覧会ということだ。また彼は、小説オリジナルのフォントをつくりだし(その名も『プラータナー』)フリーで公開している。当たり前だが、カオシンの存在はフィクションである。しかし、この小説の大きな部分はウティットの半生と重なっている。小説で使われたエロティックな自体が、自分のパソコンに実装される、小説が少しづつ日常に混ざっていく感覚(残念ながら日本語版フォントはなく、描写はこれくらいに)。
そんな中で、今回作品が演劇化されることと、小説の主題や小説家の欲望とは同期しているのだ。ではその二つ、小説と演劇、岡田とウティットが交わった作品とはどのようなものだったのか。みていきたい。
⒊それらが掛け合わされたものについて
・演劇と小説が、岡田とウティットが交わるとき
まず、岡田作品のこれまでにはなくて、今回の舞台『プラータナー』があったのはなんだろう。それは、一言で言うと”物語の強度”だと言える。1人の男の半生、出会いや別れがあり、成長や老いがある。政治の強烈な導入、性描写を伴う恋愛模様、感情の高揚や絶望、それらがすべて入っている。
これまでの岡田作品は、どちらかと言うと、限られた空間の中で人間のかすかな動作や言動の機微を丹念に追う、ディティールの作風が目立つ。同時に、演劇そのものの構造を見せるメタの視点を導入する。しかし、にもかかわらず、今回の作品はまぎれもない岡田作品だと思える仕上がりになっている。それは、小説の『プラータナー』の内容と形式が、本質的に岡田作品の性質と同期しているからだ。どういうことか。
・岡田演劇とウティット小説の共通と差異
ウティットの今回の小説を読んでやはり感じるのは、岡田の代表作とも言える『三月の五日間』との構造的類似だ。イラク戦争の始まりのニュースの中でラブホテルに閉じこもるカップル。〈性〉と〈政〉の関係性を描いた作品だ。『三月の五日間』はタイ語に翻訳されており、ウティットもこれを読んで「岡田とは同じ世界の捉え方をしている」と感じたそう。また岡田も、ウティットの今回の小説の構想を聞いた時点で、演劇化のアイディアをウティットに持ちかけたと言う。個と公の関わり方、抽象的な国家や政治を身体として捉え直すこと。岡田の持っていた世界への感受性は、この小説と呼応している。
もう一つ感じたのは、演劇と小説のメディアがもつ抽象性と見立ての構造的類似、そして相補完性についてだ。前述した通り、演劇は、身体(現実)と物語(虚構)を共存させるマジックがある。一つの身体に別の人格をいくつも入れ替えできる。日用品を使ってある時空を出現させる。小説もまた、読者の過去の記憶を素材に新しいイメージを脳内に出現させ、個人的な体験と他者との共有を両立させる。
演劇と小説がそれを可能にしているのは、抽象化と想像力を担保にしているメディアだからだ。抽象化は具体的な事象を排す代わりに共有可能な領域を生み出す。同時に、抽象化から得られる体験は、個々人の内部にだけで生じるものでもある。
上記の通り、『プラータナー』は、その主題と構造からして相性が良く、相補完的な関係としてある。岡田の演劇は、ウティットの小説によって物語の力を再び得る。ウティットの小説は、岡田の演劇によって現実の身体を得ることになる。
4.〈性〉と〈政〉の不気味の谷、そして「あなたの物語」について
・この物語は"あなたの物語"なのか?
今回岡田は、戯曲の言葉を小説からほぼ変えず書いている(大幅にカット・編集はしているが)。それだけ小説の世界観への信頼と演劇との相性を強く感じているのがうかがえる。しかし、それでも一点変更を加えたところがある。それは、主人公の第一人称を「僕」から「あなた」に変えたことだ。これは小さく見えて大きな変更だ。なぜなら、この物語は「あなた」の物語であると観客に宣言しており、実際にそうなるような構造的仕掛けを幾重にも配置しているからである。
舞台にいる役者が「観客役」と「演技している役」を往来する演出がそうだ。それは観客でもある「あなた」は主人公にもなりうるというメッセージを観客に与える役割を持つ。例えば、観客としてみているあなたに「あのキスシーン、あなたがやってください」と言われたらどうか?主人公役をあなたが演じるということは、そのまま物語があなたのものになるということになる。もちろん観たときにはそんなことは起こらなかったが、その可能性は残されている様に見える舞台設計が試みられている。
それは、役者の代役可能性という演劇の本質でもある。岡田演劇では、一つの役を複数の人が代わる代わる行ったりする演出がなされる。冷静に考えると、主人公役と役者はそもそも関係がなく、だれに代わっても物語は進む。岡田はそれをポジティブに捉え「あなたの物語」への導入にしようとしたのではないか。
一方、物語の中にも「あなた物語」への導入は潜んでいる。主人公への感情移入だ。年上の人への憧れ、大学への反発、成長と老い、個々人の記憶のシーンに重なるとき、あれはわたしかもしれないという感覚が芽生えてくる。『プラータナー』は当然わたしの人生ではない。しかし、だけれどもそう感じてしまう瞬間がある。
物語の持つちから。それに岡田とウティットは希望を見出しているように思う。一方で、どうしても、その「わたしの物語」を阻害してしまう要素がある。それが、これまで取り上げ続けていた〈性〉と〈政〉の問題だ。
・想像力に立ちはだかる〈性〉と〈政〉の不気味の谷、その正体について
昨今、性(セクシャリティ、ジェンダー)と、政(ポリティクス、ガバメント、ステイツ)の断絶が著しく感じるのは僕だけではないだろう。前者は、極めて個人的な属性ゆえに他者への共感が出来づらい。つまり、自分にチンチンがついているのか、子供を産めるのかという極めて身体的な差異によって、また、性的興奮をどの対象にするかという性欲の差異によって。逆に国家や国、政党同士では、個人の身体的属性や性的興奮の差異ではなく、主義主張や実態のない存在への認識の差異によって、その対立を深めてしまう。
しかし、その対立は、両者の「遠さ」によって引き起こされているのではなく、むしろ「近さ」によって引き起こされていると言えるのだ。どういうことだろうか。
見た目から、風土、歴史まであらゆる面で、この「遠さ」と「近さ」によって。親近感と拒否感が発生している。具体的なことを書こう。なぜ私たちは、西洋の文化を自分のものと同じように受け入れ、考えを取り入れることができるのか。逆に、なぜ中国や韓国への差異を強調し嫌悪するのか。日本人と中国人、韓国人は極めて近い。相対的に、欧米人は遠い。また、日本において政治家や企業重役の男女比率は他の先進国と比べても格段に離れている。その比率を均等に近づけようとすることから起こるジェンダーバッシングは日に日に高まってくる。
これは、何かに似ている。そう、人型ロボットの「不気味の谷」である。人間は、人型ロボットに対し、人間に似てくるほどに親近感を覚えるが、ある点を過ぎると、逆に不気味と感じてしまう。つまり、似ているところより違いに目がいってしまうのだ。
この問題は、岡田の目指す「あなたの物語」にとっても大きな問題となる。他者の物語を自分の物語だと感じられる要素が増えると、ある時から「これはわたしの物語ではない」と感じてしまう。そして、この『プラータナー』という物語の主題こそ、現実にその断絶が著しいとされる〈性〉と〈政〉なのだ。主人公のカオシンは〈性〉ゆえに、〈政〉ゆえに、近くにいる人を傷つけ失ってしまう。
「あなたの物語」を目指すほどに、その精度が高まるほどに、この断絶の引き金が引かれる可能性もまた高まる。演劇・小説の想像力は、この谷を越えることはできるのだろうか。
その可能性が残されているのであれば、僕たちは「憑依の作法」もしくは「演じることで越えること」について考える必要がある。それは「距離」への感性、「抽象」への想像力のジャンプについて考えること。これはそのまま演劇論や物語論に接続する問題だ。どういうことか。
・距離と抽象性
この『プラータナー』が「わたしの物語」になるとしたら、不気味の谷を越えなくてはならない。それには不気味の谷の手前を把握しなくてはならない。つまり、セクシャリティやジェンダーとの距離、政治や国家のとの距離を測ることだ。それは抽象度の度合いを調整すると換言できるはずだ。
前述の通り、岡田の演劇は、身体と物語を並列にするために、共犯関係と見立ての想像力を駆動させる仕組みを採用する。それは絶妙な抽象性によって成立している。つまり、これは身体(現実)と物語(虚構)との距離のことなのだ。これは小説においても同型だ。文字という記号を使う行為は、どんなに具体的に記述したとしても、文字である限りは抽象性を伴う。それは距離を発生させる。その距離をどのように設定するかに作家の創造性は宿る。その抽象性=距離は、読者の想像力を駆動させる力があるからだ。
距離によって想像力のかたちは変化していく。ちょうど、遠く100m先にいる人と、10m先にいる人と、1m先にいる人では、その対象への印象や憶測、親近感、嫌悪感は変わるように。100m離れていたら、ジェンダーは判別できないかもしれない、どこの国かもわからない。でも人間だとはわかる。その距離は抽象性、そして想像力の範囲を決定していく。
しかし、それだけでは「わたしの物語」にはたどり着けない。親近感は湧いたとしても、それだけでは「わたし」だというにはならない。想像力のジャンプが必要なのだ。そう、「憑依」という名のジャンプが。
・憑依の作法、もしくは"演じる事で越えるもの"について
あらかじめ言っておくと、別に僕は神秘主義者ではないので、ある特別な力によってそれが引き起こされるとはもちろん思っていない。それは「錯覚」として体感されると考えている。本来、それは私のはずではないにそう感じてしまう状態。その錯覚は、親近感から「わたし」になるトリガーだ。
これまでも繰り返し述べている通り『プラータナー』の主人公はカオシン(=憑依)である。彼は錯覚によって国家を身体化する。演劇は、演じることによって他者になるという擬似的な憑依を構造的に内包している。ジャンプとは憑依であり、それにはある作法を身につける必要がある。
文化人類学的に言えば、それは儀式によって、薬と音楽と舞踏によってそのジャンプを成功させてきたのかもしれない。しかし、現代科学の世界を知ってしまった僕たちが聖霊を信じるわけにもいかないし、ドラックに溺れるわけにもいかない。ではどうするのか。
岡田はそうではなく、むしろ”醒めた状態”でジャンプをする方法を目指しているのではないか。神や神秘を信じなくても、薬を使わなくてもジャンプできる方法を。それを”演じることで越えるもの”と僕は言いたい。醒めた状態で没入していく。演じることで得られるもの、全くの憶測だが、岡田はそこに演劇の可能性見出しているのではないだろうか。適切な距離からジャンプすること。その助走とジャンプを促す装置として、この作品が機能したとき、他者の物語は「わたしの物語」になるのではないだろうか。
・適切な距離からジャンプすること
『プラータナー』がそれが成功したのかは、前述の通り僕にはまだわからない。しかし、その距離とジャンプについての大きな示唆を与えてくれたのは間違いない。それは、単なる作品体験というだけではなく、僕たちが生きる現実世界との向き合い方への示唆なのだ。他者との共感と共存の作法。〈性〉と〈政〉の不気味の谷を飛び越える方法。岡田利規というアーティストが、演劇にこだわる理由、ウティット・ヘーマムーンが小説を書く理由は、まさにそこにあると感じられる。それだけでも僕は大きなものを得た機会となった。