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武蔵野の原風景、焼畑と火田民についてのメモ

家から自転車で少し行ったところにある新座市には『野火止用水』がある。江戸時代に作られた用水路で、水は多摩川から玉川上水をわたり、長さは25Kmにもなる。用途は飲料水や農業用水としてで、野火を止める為ではない。

ではこの名前はどこからきたのか。実はこの用水路ができる前から、この地は『野火止村』と名がついていた。この野火とは、野焼きのことだ。かつて武蔵野の地で野焼きが行われていたのだ。この地には、野火が人家まで拡がらないように塚や見張り台が設置されていたそう。


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もしかして、和歌で詠まれていた武蔵野の風景は、野焼きの後に広がる茅の原野のことだったのだろうか。
それを考えるためには、その前がどのような景色だったのか知る必要がある。

地理学者の貝塚爽平氏は『東京の自然史(1979)』の中で、以下の様に述べている。

"川ぞいの湿地などは別として、武蔵野の自然植生は、シイやカシなどの照葉樹林(常緑広葉樹林)であっただろうと推定されている。もっとも、それは海岸ぞいのことで、武蔵野内部では必ずしもそうでなかったとする意見もある。武蔵野の自然林はその後農耕のため、あるいは牛馬を飼うために焼かれ、草原化したといわれている。" 

一方、古代植生の研究者である吉川昌伸氏は、論文『武蔵野台地東部の溜池遺跡における過去6000年間の植生変遷(1999)』において、花粉の化石を調べた上で、少しだけ違う報告をしている。

"約6000年前以降には溺れ谷が形成され、コナラ亜属を主とする落葉広葉樹林が成立していた。約4000年前以降にクリ林が拡大し,低地では湿地林が形成された。約3200年前以降ではアカガシ亜属を主とする照葉樹林が形成され、約2600年以降に生業活動による森林の減少が示唆された。弥生時代ないし古墳時代以降に森林は衰退し、約1000年前頃には疎林に変化した。それ以降に森林植生の回復がみられたが14世紀頃以降には再び疎林になり、マツ林が拡大した。"



調査地が谷の多い溜池地域なのが気になるものの、照葉樹林だけではなかったことがわかる。
そして、1000年前頃に疎林に変化したところがポイントだが、これが野焼きによるものかは記述はない。
野焼きによって武蔵野の地は疎林になったのだろうか。 


野焼きは縄文時代からされていたという説がある。焼畑の説明やドキュメンタリーではその説をよく見聞きする。縄文人の遺跡の分布と黒ボク土層がある地域とが重なっているという説明も。

しかし、考古学の研究者・能登健氏の遺跡調査では、縄文人が野焼きをしていたという積極的な証拠は未だ見つかっておらず、焼畑農耕の歴史は8,9世紀をさかのぼるとは今のところ考えられないという。

過去の記述について目を向けてみる。
奈良時代末期に編まれた『万葉集』には、以下の歌がある。


"冬こもり 春の大野を焼く人は 焼き足らねかも 我が心焼く"

また、平安初期に書かれたと言われる『伊勢物語』に以下のような歌がある。

"武蔵野は 今日はな焼きそ若草の つまもこもれり われもこもれり"

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上記の歌からも、奈良・平安の時代には既に野焼きの風景があったことは間違いなさそうだ(『古事記』にあるヤマトタケルの東征で、敵に野原に火をつけられた話があり、それを野焼きの一種だとする説も)。


能登氏のいうとおり、この時代以降に野焼きや焼畑があったとしたら、始めたのは誰なのか。

この野火止村のある新座市の前身は『新羅郡』だった。758年、朝廷は帰化した新羅人をこの地に住まわせ、ここを新羅郡にしたと『続日本紀』に記述がある。
朝鮮半島には古代より「火田民」という焼畑をする人たちがいたことは知られている。もしかしたら、移民した彼らが、この地を焼いて畑を作ったのだとしたら。

その後、奈良時代にこの地は「勅旨牧」として馬の産地として指定された。牧場をつくるため広大な土地を野焼きしたと推定される(高麗郡に集まった高句麗の移民は騎馬民族なので、彼らが馬を育てていたのかしら)。武蔵七党の台頭の背景にもこの馬生産はあった。


ただでさえ植生に厳しい関東ローム層の土壌に野焼きが繰り返されることで、この地が恒常的なすすき原野となったとしてもおかしくはない。

また、この地では焼畑のことを「サシ」と呼ぶと、柳田國男『地名の研究』に記述がある。だとしたら、武蔵野という名前も焼畑に関係があるのかもしれない(これも諸説あり)。今でも所沢には「小手指」の地名など名残はある。

まあ、先史・古代のことなので色々な説があり断定はできない。でも、奈良・平安時代から歌に詠まれた風景もまた、人によってつくられた可能性は高い。それも移民によって。

ここまで書いて、大分県にある久住高原の野焼きを思い出した。きっとあの風景を平らにしたら、中世までの武蔵野の景色になるのかしら。阿蘇の野焼きも1,000年以上の歴史があるそうな。

これは、引き続き考えていきたいなと思っているが、一先ずはこの辺で。

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