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バイアスへの対応が最も必要なリーダーへの提言書『リーダーのための【最新】認知バイアスの科学 その意思決定、本当に大丈夫ですか?』より 第2回

バイアス研究の第一人者である著者が、ビジネスパーソン向けに神戸製鋼所や旧ジャニーズ事務所など30の事例から組織が陥りがちな「意思決定の罠」とその処方箋を解説したバイアス対策マニュアル『リーダーのための【最新】認知バイアスの科学 その意思決定、本当に大丈夫ですか?』から書籍内容を抜粋してご紹介。第2回は「リーダーの「直観」が組織を左右していた」です。


第1章 なぜリーダーにバイアス対策が必要なのか?

リーダーの「直観」が組織を左右していた

脳はどのように「認知」するのか

 まえがきで「人の認知は歪んでしまうもの」とご紹介しましたが、ここで疑問に思った方もいると思います。
 そもそも「人はどのように物事を認知しているのか?」ということです。
脳の大統一理論」をご存じでしょうか。
 すべての知覚は、仮説とその修正であるという理論です。この理論によると、まず人は「自分の中に『外の世界とはこうなっているはずだ』という」仮説があり、感覚器官を通じて外から得た情報と、その仮説を高速で照らし合わせているそうです。
 その過程で、何度か修正と外の情報との照らし合わせを繰り返し「これ以上は修正する必要がなさそうだ」ということになったら、修正をやめてその内容を認知するというわけです。
 この理論によると、人間の認識とは、たとえば外にあるものを撮影して、どこにどの色がどれぐらいあるのかということを、カメラのように把握するわけではありません。
 むしろ「おおよそ、その辺の形はこんな感じで、色合いはこんな感じで……」と予測します。
 つまり、周囲の世界についての仮説が自分の頭の中にあり、それを目や耳などから入ってきた情報と照らし合わせて、修正を重ねて認識していくのです。
 もちろん、この修正がうまくいって外界にあるものと内的な認知が一致するところまでいけば問題ありません。しかし、修正が途中で終わってしまうと、実際とは違った形で認知することになります。
 それが認知の歪み、すなわち認知バイアスになります。

 こうしたことは常に起こり得ることで、リーダーに限らず、人間であればもちろん等しく全員に起こることです。これが認知の構造である以上、人であれば認知が歪む可能性は、常にあるというわけです。
 もちろん、認知が歪む原因はこれだけではありません。錯視のように、人間が捉えられる情報に限界があり、限界がある情報から、もとの様子を再現するときにズレが生じるということもあります。確率の判断の歪みのように、人間の判断が理論通りにいかないことから来ることもあります。
 しかし、人の認知が基本的に仮説を外の状況と照らし合わせて正しいかどうか確認していく、正しそうだと思ったところで、照らし合わせるのをやめる、 そういった仕組みで成り立っているという視点はとても大事です。
 修正しきれないで残った現実とのズレが、バイアスとなることがあるからです。
 そして、本書の目的は、認知が歪みそうなポイントを認識しておくというところにあります。
 確率判断や意思決定の間違いで、これまですでにわかっているものがあります。 そのようなものを知っていれば、すでにわかっている落とし穴を避けることができます。
 いや、実際には事前に回避できなくとも、意思決定をした後で少し時間を取って振り返ることで、修正できる可能性が出てくるのです。

リーダーは決定権を有し、判断力を要す

 では、なぜリーダーにこそ、バイアス対策が必要なのでしょうか。
 結論から言うと、リーダーは集団や組織の意思決定をする立場にいるからです。
 たとえば、こういう会議を想像してみてください。
 営業部、企画部、開発部が出席し、新商品の名前を決める会議があったとします。
 このとき、すべての意見を出し尽くしたころに、遅れて会議室に入ってきたワンマン社長が、おもむろに「商品名は〇〇にする。もう決めた!」と宣言し、会議に関係ないところで商品名が決まってしまったとしたらどうでしょうか。
 仮に、社長が最初から会議に参加していて、議論が出尽くした段階で最終的に「どの部署の言い分にも一理あるが、もう時間もないから自分の責任で決める」という流れだったら、納得もいくでしょう。
 しかし、そういったやり取りもなく、会議の経緯などもすっ飛ばして、リーダーが独断で決めてしまった……。
 この意思決定方法は、一種の独裁と言えそうです。
 集団意思決定においては、独裁と話し合いのどちらがよいかという形で、問題が立てられることがよくあります。
 独裁は、独裁者が有能である限りうまくいきます。
 有能な独裁者の判断が間違っていなければ、反対する人の意見調整などの手間や時間を使わずに直ちに決められるからです。
 さらに、独裁者が善意であれば言うことはありません。組織のメンバーや関係者全員の最善の利益や感情を尊重し、自分の利益を最優先としない。そのような意思決定を一人でおこない、通せる独裁者がいたら、みんなハッピーになるでしょう。

 しかし、現実にはなかなか難しいですし、独裁では組織のメンバーの士気が下がります。そのため、会議で決定することになります。
 独裁で決定がおこなわれる場合、その判断が誤っていても修正する人がいないとなると、組織がまずい方向に進んでいくことになります。
 これに対して、民主的な手続では、反対意見が受け入れられる可能性があり、常に修正の機会があります。
 正式な会議を経たときも、最終的には社長や部長なりリーダーが決めることもあるでしょう。その判断がバイアスの影響を受けていたとすると、組織の意思決定にバイアスが反映されることとなります。

会議よりリーダーの「直観」のほうがうまくいく?

 普段は独裁者ではなくても、リーダーとして独裁的に決定しなくてはいけないという場面もあるでしょう。
 たとえば、即断即決が必要なときです。危機に即応する必要があるときは、民主主義的手続に時間を掛けていると、決定的なダメージを受けることもあり得ます。
 即断即決をおこなう場合、ヒューリスティックス的に決めることになるので、いろいろなバイアスの影響が出やすくなるおそれがあります。
 ヒューリスティックスとは意思決定の際に、さまざまな情報などを一つずつ確認し意識的に推論しながら判断するのではなく、素早く判断することです。

 会議には時間が掛かります。言葉を使ってコミュニケーションをおこない、初めて聞くメンバーがいた場合も、問題の所在を理解できるようにし、判断が形成されるまで待ち、判断の結果を再びコミュニケーションによって共有し、合意を形成していく過程だからです。
 リーダーのヒューリスティックスに頼らず、民主的ではありますが、どうしても時間を要します。
 そこをリーダーがヒューリスティックス的に即決するということは、リーダーがこれまでの経験で培った直観に従って、素早く判断することです。
 素早く決められるのですが、それをそのまま集団の決定とする際には、ヒューリスティックス的な判断による誤りを修正する可能性がなくなるということでもあります。

 しかし、ヒューリスティックス的判断は、うまくいくことが多いのです。
 意外に思われるかもしれませんが、だいたいうまくいってきたという過去があるからこそ、この判断が残っているわけです。論理的に考えると、推論過程において、間違っているところがあるかもしれません。ですが、そこで出た結論は、そんなに困った結果を生まないことが多いということです。
 たとえば「代表性ヒューリスティックス」というものがあります。
 代表性ヒューリスティックスとは、人の特徴を見て、その特徴からカテゴリーを推測するというヒューリスティックスです。
 私たちは、人を認識するとき、カテゴリーで認識しています。
 よほど親しくなったら「個人化」といって、その人を個人として認識しますが、それほど親しくない場合は、人をカテゴリーに分けた段階で頭の中での情報処理を終了しているのです。

 つまり、他人を認識するときには、まず無意識の情報処理過程でカテゴリーに分けます。このカテゴリー分けをするときに、その人の外から見て、すぐわかる特徴から「この人はこういうカテゴリーだな」という感じに、パッと分けてしまうのです。
 これが代表性ヒューリスティックスです。よくあるのは「背が高いから昔バスケット(バレーボール)部だったでしょ?」というふうに、今の特徴からカテゴリー(この場合は学生時代の部活動)を推測するのです。

「直観」と「直感」の違いとは?

 代表性ヒューリスティックスは頻ひん繁ぱんに起きますし、これもバイアスの一つですが、こういった「直観」はビジネスでは大切になることがあります。
 しかし、この「直観」と「直感」は、区別しなくてはいけません。
 ここでいう「直観」とは、たとえばベテラン職人の方の仕事に見られるようなものです。職人の方は、もう何十年も同じ仕事をやってきて、さまざまな経験を通じて培った暗黙知といいますか、言葉にならない知識を無意識に働かせて判断することがあります。それこそが「直観」です。
 職人の方の「直観」がどのようにしてできているかについて、心理学では「熟達研究」というテーマで研究されました。それだけ、熟練者の暗黙知がどのようになっているか、その仕組みを知ることは重要です。
 その仕事を何十年もやってきて、いろんな意思決定を経て成功も失敗も繰り返してきたベテランが、いざ判断するという状況下で「この案件はこっちのほうが成功する」とか「あっちを選ぶと失敗しそうだ」という見込みが、パッと立つのが「直観」です。
 こうしたヒューリスティックス的判断による「直観」は、もちろん失敗することもありますが、うまくいくことも少なくありません。ですから、長い経験を積んだリーダーがその経験から導き出した判断(直観)は尊重すべきです。

 ただし、そうした直観と単なる山勘のような直感は別物です。たしかにベテランだけど、自分の経験にはない事項を、当てずっぽうで判断するということもあるでしょう。
 そのような「直感」は「直観」のようには信頼できません。
「直観」を養う経験とは、単に体験するだけでなく「あのときはどうだっただろうか」などと自省することです。そこから仮説を立て、工夫を凝らし、だんだん「直観」が培われていくものでしょう。
 一方、そういう過程を飛ばして「まあこれでうまくいくでしょう!」という判断も、日常語では直感と言われています。しかし、それは単なる予想で「直観」が持つほどの価値はないでしょう。
 そういった「直感」ではなく、長い経験で培われた「直観」を尊重すべきです。
 日常だと、何か情報を与えられてパッと出てきた判断ということで、両方とも「ちょっかん」と読んで区別することがないかもしれませんが、実際には全然違うものではないでしょうか。

「鶴の一声」も直観か直感かで違ってくる

 先ほどの例で言えば、社長の「鶴の一声」が直観によるものであったら、よい組織運営になる可能性があるでしょう。
 ですので、問題は「リーダーが直観を養える経験を積んできたテーマの意思決定なのか」を見極めることです。
 長年やっているけど、リーダーが「直観」を養えるような経験を積めず、リーダー自身が十分な洞察にまで高められていないテーマについて、意思決定しなければならない場合は「直感」のままになっているでしょう。
 たとえば職人さんは、モノを作るときにあれこれ試してみて「この角度でやってみてうまくいかなかった」「この角度でやってみてうまくいった」みたいなことを何万回も繰り返して、直観を養っていくものだと思います。
 その際「うまくいったのは(うまくいかなかったのは)なぜか?」ということを無意識に考えていたり、思い返したりする時間があるのではないでしょうか?
 そういう違いについて、ある程度の洞察に至り「こういうことなのか」という形で、自分なりに納得するものがあると思います。

 一方、そういう振り返りをしないで、たとえば失敗したら「じゃあ次はこれ、次はこれ……」と、その原因について洞察したり納得したりしないで、どんどん次に行っているだけという場合は、直観は磨かれないでしょう。
 一般に、長い経験を積んできたベテランは、いろいろなことを知っているでしょう。しかし、考えを積み重ねた場合と、積み重ねていない場合では、洞察の深さは全然違うということは予想できるでしょう。
 俗に「鶴の一声」などと言われますが、鶴の一声にも種類があって、この場合それが直感と直観の違いということです。

書籍目次


第1章 なぜリーダーにバイアス対策が必要なのか?
第2章 実例から押さえておきたい重大(十大)バイアス
第3章 身近に潜む組織に悪影響な20のバイアス
第4章 意思決定を妨げる錯誤に要注意
第5章 バイアスや錯誤を把握して、ベターな問題解決を

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