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【エッセイ】その声は深く、遠く。

その日は地元で午後から打合わせが入っていたため、午前中は簡単に掃除や片付けをして過ごした。ひと通り家事を済ませた後、車を走らせ途中で適当な外食チェーンへ入ろうと思っていたが、どうにもお店で昼食をとっていては時間が足りなそうだ。つくづく自身の時間配分や要領の悪さに辟易する。

予定時間は迫っていたが、空腹のまま打合わせするのも、腹の虫が鳴っては恥ずかしい。仕方なく適当なコンビニへ車を停めて車内で昼食だけ済まそうと思った。

車から降りコンビニの入り口へ向かっているところで、何やら視界の隅に動くものが見えた。視線を国道沿いにあるコンビニの看板に目を向けると、そこにいたのはヒヨドリ…ではない。体躯は似ているがあの青藍色の体に腹部が赤褐色…まさかイソヒヨドリ?

元々、磯や岩場に住む鳥ではあるが、近年は生活圏を市街地まで拡大しているらしい。

車を停めたコンビニの場所は、海沿いから10キロ以上離れていたため、こんなところで?という思いと、少し鳥から距離も離れていたため、見間違いでは?という可能性を拭い切れず、車へ双眼鏡を取りに行ったのだが、戻ってくると既にイソヒヨドリはそこにおらず、飛び立った後だった。


初めてイソヒヨドリをみたのは友人夫婦とその間に生まれてくる子どもの撮影のため訪れた鹿児島の海沿いの町だった。朝、ビジネスホテルをチェックアウトし、起き抜けにコーヒーの一杯でも飲もうかと、このときも最寄りのコンビニへ車を停めた際に、清澄な鳥の鳴き声が聴こえ、鳴き声がする先に目をやるとイソヒヨドリが電線の上で羽を休めていた。梅雨が始まる少し前だったこともあり、燕に混じり聴こえてきたその鳴き声はまるでこれから訪れる誕生を祝うように美しい声色だったことを思い出した。

イソヒヨドリは"ヒヨドリ"と名前はついているが、調べてみるとどうやらヒヨドリの仲間ではなく、ヒタキ科の鳥だそうだ。確かに、体躯はそっくりだが、ヒヨドリ特有の騒がしさや節操のなさみたいなものはなく、あの鳴き声の美しさや、歩く際の可愛らしさはヒタキ科と言われると、なるほど確かにそのとおりだと納得してしまう。

せっかくイソヒヨドリに出会えたのだから、その美しい声色を聴きたかったが、時間も差し迫っていたこともあり深追いはせずにコンビニでパンを買い、車で食事をそそくさと済ませて打合せへ向かった。


打合せ場所は公共団地とその一部の土地を崩し、住宅街へ建て替えた場所にあり、使われなくなった団地の一つを商業施設として使用している場所の一角にあった。施設は近隣住民の憩いの場と子どもたちの遊び場として活用されているらしい。

施設を管理している方へ挨拶を済ませ、まだ参加者が揃っていないとのことだったので会議室で少し待たせていただく事になった。

子供たちの遊ぶことができるよう、遊具もいくつか置かれている中で、学校に置かれているような懐かしいアップライトピアノがふと目に止まった。

随分と昔のことだが、数年ほどピアノを習っていた時期があった。もうすっかり弾けなくなってしまっていたが、不意に音を出してみたい衝動に駆られた。ちょうどそのときに羊と鋼の森の小説を読んでいた事も影響したのだろう。

重たい鍵盤蓋を上げ、赤褐色のカバーを外すと、そこには艶のある白と黒の鍵盤。少し重たい鍵盤の一音を鳴らしてみると「トーン」と美しい音色が部屋に響いた。

そうだ、ピアノという楽器はこんなに深みのある美しい音色だった。誰もいない会議室の空気を音が伝わっていくのが波のように目に見えるようだった。

通っていたピアノ教室の建物は道路の拡張工事のために取り壊され、今はもう無くなってしまったが、長い間ピアノを触っていなかったのにも関わらず、鍵盤を鳴らした途端に音色だけではなく、当時弾いていた曲や、建物の外観や質感、椅子の配置まで思い出した。

ピアノの音を聴くだけでこれほどの情報を思い起こすのだから、音のエピソード記憶というものは写真と同じように記憶の奥深くへ届くものなのだとしみじみ感じ入った。


今回、イソヒヨドリの鳴き声を聴くことは叶わなかったが、これからその声を聴く度に鹿児島の海沿いの町を、友人家族を思い出すのだろう。

最近、別の友人たちが楽しそうに楽器を演奏していることに感化され、再び、ギターやピアノ(電子ピアノであるが)を練習している。

イソヒヨドリのように、またいつか美しい音を響かせるようになれたらと思う。

鹿児島へ南下するために車中泊した朝の光、ホオジロが鳴いていた。


桜島が見える河口にて

撮影機材  Nikon F /Nikkor-S Auto 50mm f1.4 / fujifilm fujicolor100


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