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人類総多忙時代に突入-疑問編-

どうも
シュートです。

今日は少しだけ日向ぼっこしました。
やっぱ太陽の光はきもちいですね。

セロトニン大量生産中であります。

さて早速ですが、今日はちょっと考え事があり、呼んでくださった方の意見を頂戴したいなと思い、ブログを書いてます。

決して何かを主張するものではなく、ご相談に近いようなブログですので、ご了承くださいませ!!!

さて、参ります。

"つながり"とは何かを今日はずーっと考えていました。つながりの本質は変わらないけど性質が変異していったのではないか?今の社会においてつながりは人々を生かすものでもあり、SNSにおいて逆に苦しめるものでもあるのでは?

そこからじゃあ、現代における”つながりとの付き合い方”そして、ストレスレスな暮らし方をするにはをテーマに、つながりとは?その重要性とは?を"自論"で考えてみました。

結論:分からなかった。論文を参考にしてみます。

いきなりですが、

"つながり"って誰にも見えない


ボクはそう思います。

だって、別にボクと誰かが、ヒモとヒモとで繋がってるわけでもないし、僕たちは繋がってるってお互いに言ったって、どう証明したら良いんかいなと思ったんですね。

こんなこと言うと気持ち悪いですが、つながりって言葉は『いや。多種多様でめっさ曖昧やがな。笑』と思うのです。

きっとボク達は、曖昧だからこそ分かりやすく表現するために、家族、友達、仲間、同僚、国家、とかそう言ったカテゴリーを設けることでなんか繋がってるねーみたいにしようとしてるんじゃないかと思うんですね。

今なんて特に
みんながSNSという空間でつながりを求めてる。

**ボクは思う。。。

もはや、誰と繋がりたいねん。笑**

見知らぬ誰かと繋がりさえすれば、安心する。と思っているボクもいたことは事実なので過去の自分に問いたい。笑

自論ですが、きっと”つながりたい”という思いは、本能で、人間は個人としては弱いから、種として誰かと手を取り合わないと生きていけなかった。そこに結果として、つながりが生まれた。と思うのです。

つながりは自発的に作ろうとして生まれたものではなく、本来は自然発生的に起きた現象であって、それがいつの間にか人々にとって大切なものであるとインプットされていったのではないかと。

だから、現代において生きていく手段として、物理的に誰かに会えなくてどうしようもないから、つながりをSNSで感じたいのかなあ。と思ってます。

故に、何でつながりたいのか分からない。

本能だから。笑


そして、現代において何が起きているか。。。

つながりたくて必死すぎる現象

ずうううううっとSNS見てない?
てか、つながり過ぎて逆に疲れてない?とも思う。

食べること、寝ることは本能の中でも最高に楽しいと思うのに対して、つながることは、何で疲れてしまうの?

ボクが思うに、誰かと繋がりを感じようとする事で疲れを感じる理由は、本能と個人の思想のギャップにあると思う。

本能でつながりを形成してきた人間は、知能によっていつの間にか集団で生きることを効率化してしまったことで、生きることにヒマになった。

その結果、集団のつながりの必要性を感じる必要がなくなり、個人を重んじるようになったと思うのです。

故につながりは、生存するためではなくて、自己実現のために必要だということに変わっていき、元々生存するためのつながりに気付くことができなくなって、自己実現は本能ではなく理性に当たるから、より多くの人とつながろうとすることで疲れを感じるんだろうと思う。

本能と理性がごっちゃんごっちゃんに
なっている。。。

とんでもなく忙しい日々を
経験しているのが今の人類だと思います。

**

人類総多忙時代と
名付けましょう。笑**

では。

今の社会構造に順応して生きる中で、どうやってつながりと付き合い、よりストレスレスに生きるためにはどうすればいいのか?

と言うのがボクの問い(テーマ)です。


解決策云々よりも、人は直接的・間接的に誰かと繋がっていなければ生きていけないために、まずつながりとは何か?そしてその重要性に気付くことが大切だと思います。

**

しかし。**
ここからが分からんのです。笑

・つながりとは
・その重要性とは

よろしければ
意見をくだされば助かります。

さて。言語化がうまくできないですが、
ただ心で何となく感じていることがあることをここに残します。

ボクが思うに、つながりは恣意的ではなく自然発生である。故に、掴むものではなくて、感じるものである

周りを見渡すと、つながりの捉え方に違和感があって、つながりが悪用されているようで虚しいのです。

例えば、誰かの自己実現という名の下、カテゴライズされた関係性(夫婦、友達、〇〇コミュニティ)にある、つながりの色と形だけを見て、つながりを掴もうとする行為。

つながりを自分でコントロールできると思っているんですね。

一方で、自然発生的なつながりは、自身が掴もうとしたつながりと反して、人の恣意的な意図や行動が入らない現象に対して、色と形を自らで見つけ、ただひたすらに感じるものだと思うのです。

自然とのつながりや、遠くの国にいる人とか。目の前にいる人とか。
コントロールするのではなく、感じていれば、やってくる。と言う感覚。

ここがつながりの捉え方の違いなのではと思います。

なんかまだよく分からないことが多いけど、じゃあ、つながりの重要は?と、聞かれると言葉にできないし、1つだけボクが思うのは、つながりの色と形を感じて、あるべき関係性とは何かと考え、築くことからしか生まれてこない。としか言えません。

ここまでが考えてみたこと。もしよろしければ、つながりとは?その重要性?などこんなの読んでみると良いよ。なんて言ってくださると嬉しいです。

以上、実体験として考えてみました。しかし、ボクにはつながりのその先にあるものがまだ言語化できませぬ。

論文をあさってみよう。

以上。
今日のぼやきでした!
ありがとうございます。


ネパールの孤児院建設費用に全額費やします。