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[反戦怪獣少年時代]No.2 きみんち何党?うち共産党

僕の父=金子徳好も初台の大工の子として、男ばかりの四人兄弟の末っ子に生まれ、お坊ちゃん育ちで勉強が出来たので職人コースじゃなくて進学コースに進んだが、長兄・正義は奄美大島で、次兄・精市は中国で戦死した。
お祖母ちゃんからは精市さんが飛行機乗りだったと聞いて誇りに感じながらも、離陸直後に撃ち落とされたという話は残念無念で、空中戦での撃墜だったら少しは救われるような気がした。どっちも死ぬんだけど・・・

戦後、二歳上の三兄、見るからに職人肌の金三郎叔父さんが家を継いで大工(金子工務店)になって、僕の誕生の時には木製の頑丈なベッドを作ってくれて、そのベッドは7歳下の二郎が2歳になった頃か、家の表に出されて物置台になり、雨ざらしとなって朽ち果てた。

ちょっと悲しい気分が生まれ、このベッドに転がっていた幸せな感情というのは確かにあったよな、と時々見ては昔の郷愁にふけっていたのは10歳くらい。

父は旧制府立6中(新宿高校)から一高(東大)受験に失敗して一浪後、高等農林(農工大)で腐っていたが徴兵され、北一輝などの右翼思想にかぶれていたこともあって中退して戦争で死ぬつもりだったが(中退が先か徴兵が先か分からない)、軍隊で滅茶苦茶殴られたら思想は逆転、戦争が嫌になり、戦後になって隠されていた日本の軍国主義昭和史が明らかになり“こんなバカな戦争に何故誰も反対しなかったのか?”と思ったら日本共産党だけが反対していたと分かったので直ぐに共産党に入ったんだよ・・・と、言っていた。

終戦直後は、伊豆大島で代用教員を1年くらいやったらしいが、初台に戻った。

初台の共産党細胞(地区組織の呼び名)に、関東大震災で甘粕大尉に殺されたとされている大杉栄の妹の家に、スラっと背が高く細く若く綺麗な女性党員が下宿していて、働きながら武蔵野美術学校油画科に通っていた。
「徳さん、画のモデルになってくれない」と言われて描かれているうち、「この女、俺に気があるんだな」と思ったんだよ・・・と、言っていた。
母=旧姓は三津本静枝である。

母方の祖母も党員で、尼崎に住んでいた。
街頭でビラを配っている写真があったが、尼崎に行くのは1日がかりだから滅多に行けないから祖母の記憶は僅かなものだ。

「細胞会議」というものに連れて行かれた記憶も僅かにあるが、赤ん坊の頃ではないか。「細胞会議」という言葉はしょっちゅう両親の会話のなかに出て来たし、良く家に労働者ぽい党員がやって来て世の中の批判を立ち話していた。

結婚直後、党の資金を集めるために屋台の焼き鳥屋を父と母でやっていると、米兵が母めあてで通ってくるので、ひとつ驚かせてやろうと仲間で米兵を囲み、
「日本人は共産党ばっかりなんだ、俺たちはみんなコミュニストなんだぜ」
と驚かすと、ビビった米兵が母に恐る恐る、

「Are you a communist, too?」

と聞くと、母は、

「Yes, I am a communist!」

と堂々と言ったので、米兵はスタコラ逃げ去った・・・という話は好きだった。

小学校に入ってすぐの頃、ジャングルジムに登りながら頂上で小沢万記くんに「君んち何党?ウチ、共産党」と言った・・・というのは大人になってから小沢くんから聞いた。「なんのことか分からなくてびっくりしたよ」と。

もう一人、渡辺洋くんも一緒になって、1〜3年の低学年ではいつも3人でつるんでいた。二人とも僕より勉強が出来たが、クラスでは僕がボス格のような小派閥を形成していた。

ストーブ用のコークス置き場とか、使わない机椅子が置かれた埃ぽい倉庫とか、秘密めいたところで延々と喋った。何を?・・・忘れたけれど、楽しく充実していた、喋るだけで。二人とも東大に入った。

二人とは4〜6年の高学年では別なクラスになってしまうのだが、それは担任の長谷川清先生の教育的采配ではなかったろうか、という疑いがある・・・
3人組のうち、僕だけが“鬼のように厳しく怖い先生”と噂されている浜野敏明先生のクラスに配属されたクラス分けの日は仰天し、涙は流さないが心は泣いた。
が、しばらくして浜野先生とそのクラスに身も心も捕らわれてしまうのだが、その頃、廊下で会った渡辺くんが「金子は俺たちを見捨てた」と言ったが、見捨てたなんて気持ちは無かったが、何も言えなかったし、小沢くんは“そこまで言うことはないだろう、付き合いはなくなっちゃって寂しいけど”という顔をしていた・・・

話は低学年の時代に戻る。
渡辺くんの家は裕福で、出されるお菓子も豪華だった。小沢くんも来て、替え歌を作った。テレビ番組の主題歌は直ぐに覚えて、特に好きなのは「ナショナルキッド」だったが、主題歌が無いマンガや物語に対して、何かテーマソングを与えたいという気持ちで詞を書いた。
例えばダークダックスの「ワシントン広場の夜はふけて」をテレビで見た吹き替え映画、ハマーフィルムの『フランケンシュタイン』の歌に替えて「♪ワーシーントンひろぉばの、よはふけって〜」は「♪フラーンケンシュタアイン、おおおとっこ〜」として「♪それーが、とおおれば、ひぃとぉがあ死ぬ〜」と続けて、20番くらいまで作って、フランケンシュタインの物語をなぞってノートに書いた。だから今でも「ワシントン広場の夜はふけて」を聞くと、フランケンシュタインを思い出してしまい、本来の歌詞が思い出せない。
そんなことを小沢くんや渡辺くんの家でやっていて、「ぼくたちコンドルクラブって名乗ろうぜ」と提案。地図で見る渋谷区の輪郭がコンドルに似ていたからだ。渋谷区の形はカッコイイ。別にクラブの規定があったわけではない。

小学館「動物の図鑑」や「宇宙の図鑑」を買ってもらったのは、小学校に上がる前だったろうか?国語の授業がひらがな(「はしれ、はしれ、みんな、はしれ」)を音読するところから始まったので、漢字まである程度は読めた僕には、かなり物足りなかったが、読めない生徒も結構いたようだから優越感に浸っていたが、いちばん最初の通信簿の結果は国語「3」だった。親は愕然。

僕は図鑑で得た知識を吹聴して「金子くんはもの知り博士」という地位を得た。
授業参観の日、始まる前に黒板に大きな太陽と極小の地球を描き、「太陽は地球の33000000ばい」とコメントも書いたが、長谷川先生は「なるほどね、金子くんはもの知りだけど、これは今日の授業に関係ないから消すね」と、僕を傷つけないように気を使って消した。

「動物の図鑑」はかなりボロボロだったからだろうか、2年生の誕生日の時に小沢くんが新版の「動物の図鑑」をプレゼントしてくれて、口絵も新しくなっており、とても嬉しかった。

ソ連のガガーリンが宇宙から地球を見て「地球は青かった」と言ったのは小学校に上がる前のことだが、宇宙飛行士が犬から人間になるまで、ずいぶん早かった印象だ。科学の進歩は早い。ライカ犬は生きて帰って来たと、ずっと思っていた。『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』を見るまでは・・・

隔月刊「今日のソ連邦」というデカ版のソ連広報誌がウチには置かれていて、宇宙飛行士が表紙になっていることが多かった。ガガーリンも。ソ連の科学は進んでいる、と信じていた。
科学的なことは全てに優先する気がしていた。
21世紀になればエアカーが走り、ロボットが活躍するだろう。

1年生の1月1日から「鉄腕アトム」のテレビ放送が始まった。これは衝撃だった。良く「ウルトラQ」の衝撃の話をする機会はあるが、思い返すと「鉄腕アトム」の衝撃も大きかった。センスやストーリーが最先端をいく感じであった。

数年前にやっていた「実写版鉄腕アトム」は子供にとっても感心出来ないものだった。子役が角(ツノ)の付いたヘルメットを被り、プラスチックであろう固いパンツを履いて「鉄腕アトム」を名乗るのは無理があった。空中飛行のシーンも、高いところから上半身だけ背中から撮ってるだけだろ、地面に動きがないぞ、と見抜いていた。

テレビアニメが始まる前から手塚治虫の原作マンガはとても人気があった。連載誌の「少年」は買っていないので、古本で別冊付録を一冊10円で買ったり、たまに単行本を母が買って来たりした時は狂喜した。単行本を持っている子供は結構いたと思う。

交通事故で死んでしまった一人息子のトビオを復活させようとした科学省長官・天馬博士はトビオそっくりのロボット=アトムを作るが、成長しないアトムに苛立ってサーカスに売ってしまい出奔、後を継いだ新長官・お茶の水博士が引き取って、テレビではすぐにアトムの家族を作ってあげる。だからお父さんお母さんはアトムより年下、妹のウランちゃん、弟のコバルト・・・は、ちょっと待て、原作では「みどろが沼の巻」ではコバルトはお兄さんではなかったか、間違った生き方をして死んでしまった不良のお兄さん、そういう不良の話はテレビではやれないからちょっと抜けた感じの弟にしたのか、まあ、いい、許そう、という気持ちで毎週欠かさず見た。
(あれ?すると誰がコバルトを作ったんだ?⇨フランケンシュタイン博士だって、チャットGTPに聞いてしまいました。アトムの設計図を素にフランケンシュタイン博士が作ったと)(やっぱり設定が深いな)

テレビ放送を機に、毎月一冊づつカッパコミクス「鉄腕アトム」が発行され、これは毎月買い、巻末にアニメの制作過程などが書かれているから勉強になった。

尼崎のお祖母ちゃんが危篤で母が僕も連れて行こうとしたが、「鉄腕アトム」が見られなくなるという理由で拒否したのには後々まで罪悪感が続いた。

帰って来た母が「お祖母ちゃんは『修ちゃんに会いたいねえ』と泣きながら言ってたよ」と恨みがましく言っていたのが、いつまでも胸に突き刺さっていた。

1年生の頃までは母と銭湯は女湯に入っていたのでは・・・湯船で「修ちゃんはどんな女の子が好きなの?」と聞かれてS村さんのことを思い出しながら水槽を見ながら「おしとやかなひと」と言ったのは、聞いた母と反対側を見て言ったということではないか、照れて。でも照れた感情や母の顔は残ってないで、切り返しの水槽の映像が目に残っているわけだ。汚い水槽の。この話を思い出す時は、必ず一緒にその水槽が目に浮かぶ。

S村さんは登校の途上に20メートル先に現れ、僕は彼女の小柄な背中を見ながら坂を登り、ちょっと肩を揺すって踏みしめるような歩き方とか、揺れる黄色いランドセルとかは細かく思い出せるが、追っかけて話そうとはしなかった。だが、帰る時には一緒に下校することがあって、歩きながら「金子くんねえ」「なに?」「ねえ」「なに?」「ねえ」「なに?」「バカ」で笑う、というのを良く覚えている。何回かやられた。やられることが嬉しく、楽しかった。

自分は覚えていないが、何年か後に母から「S村さんと下校途中の道の歯医者さんの前の石段に、ちょこんと仲良く座ってたことがあったわ、向かい側から見たけど、声かけなかったわ、ふたりの世界を邪魔するみたいで」と言われたことがあった。

S村さんにはお兄さんがいて、家にはちょっと年上のマンガ誌「ボーイズライフ」があって、S村さんちに遊びに行くと僕はそのマンガばっかり読んでいた。S村さんはその間、何をしていたのだろう? ある時、たまたま矢口くんと二人で行った時に、やっぱりマンガばかり読んでいたら、S村さんのお祖父さんが突然現れ「男の子が女の子の家で遊んでちゃいけない、帰りなさい」と言われてしまい、冷や汗をかきながら帰った。怖かった。あれは、男子が二人で来たからなのか、僕が一人で遊びに来ている時もお爺さんはいたはずだ。複数男子になって、何か孫娘にまずいことでも起きる気がしたのかも知れない。
何日か後、「ともだちに手紙を書く」という授業があり、それぞれクラスの誰かに手紙を書いたあと、まさか読まされるとは思っていなかったであろう矢口くんが先生にあてられ、僕にあてた手紙で「またあそうぼうね、でも、S村さんちはやめよう、おじいさんがいるからね」と書いたのを、彼は皆の前で読まされたのであった。僕もまさか、そういう指導の授業だとは思わなかったから、矢口くんを責める気持ちは全くわかなかったが、S村さんの顔は見られなかった・・・いや、見た。真っ赤になっていた・・・いや、見てないけど、そういう記憶に作られているのかも?
S村さんとの仲はその授業で終わった。その後会話も全く無くなったのでは・・・小学校を通して、女の子の家にあそびに行ったのはS村さんちだけだった。

S村さんとは高学年では別のクラスになって3年間話すことも全くなかったが、卒業式の前日、S村さんの友達から呼び出されて下駄箱置き場に行くと、S村さんがいて卒業記念のサイン帳にサインして欲しいと言われて最初のページにサインした。「中学校はどこに行くんですか?」と敬語で聞かれ、S村さんは代々木中学なんだろうなと思いながら「三鷹二中です」と答えてしまった。四中なのに。単純に間違えただけだが、これはその後2年間くらい激しく後悔した。S村さんに間違った情報を言ってしまったという後悔・・・彼女の隣りには、友達がニコニコして立っていた・・・映像としては出口の光を背に浴び、やや逆光気味の美少女が悲しい微笑を浮かべている・・・

また時代を3年戻します。
「鉄腕アトム」がヒットすると「鉄人28号」がビルの街にガオっ!と現れたが、アニメがちょっと雑であった。鉄人も敵ロボットもデザインはカッコいいが、人間との比較の作画が時々狂っていて、その大きさが安定しない。原作の最初の方を読むと、鉄人は戦争中に陸軍の最終兵器として開発されたという設定が面白いと思ったが、テレビではあまりそこには触れなかったので、それで良いのだろうか、みんなは知っているのかこの重要な設定を、と思った。
原作の横山光輝は「伊賀の影丸」など、しっかりした物語を描く安定感ある漫画家と認識していた。

「狼少年ケン」もキャラクターが面白く、動きも良くて楽しい。話が良く出来ている。「宇宙パトロール・ホッパ」は話が少し乱れている。地球の少年が宇宙でホッパ人に助けられて改造されて地球に帰れないというのは可哀想ではないか。

毎日のようにアニメ番組があり、夏休みになると、午前10時頃から昼頃まで再放送を連続してやるので午前中は勉強出来ない。その前の時間帯はNHKで「おかあさんといっしょ」をやっている。幼稚に思える年齢になっても、いちおう見てしまって楽しんでしまう。保育園で見ていた「ブー・フー・ウー」をまだやっている。カバンから豚人形を取り出してネジを巻いて動かすオギクコさん(荻昱子さん)はまだ続けていただろうか。11時からの「ロンパールーム」も時々、見てしまう。うつみみどりはまだ出ていない。

実写のテレビ番組はアニメに押され気味だったが、「月光仮面」の後番組で、月光仮面を演じていた大瀬康一が一転、時代劇「隠密剣士」を始めた。最初は突然の変身に不思議な気がしたが、すぐに「隠密剣士」の大瀬康一が好きになり、月光仮面はかなり古臭いものという位置付けになった。2代目「七色仮面」の千葉真一は「アラーの使者」もやって、これから伸びる感じがした。

「隠密剣士」では何より付き人のように現れる忍者・霧のとんべえを演じる牧冬吉は、「怪傑ハリマオ」にも出ていた渋い脇役で、忍者や一番の手下格が実に良く似合った。好きな俳優だ。その後、「仮面の忍者赤影」の白影も演じた。

敵も甲賀何人衆とか伊賀何人衆とか、毎回一人づつやっつけて殺すというフォーマットが、次の回に期待を持たせる。

「忍者部隊月光」も始まり、忍者ブームが到来した。子供忍者・新月に憧れ、自分もそこに加わっている姿を想像した。

アニメでも「少年忍者風のフジ丸」が始まった。この番組のラスト数分のコーナーで、実際の忍者の子孫で戸隠流34代目、初見良昭先生が可愛い本間千代子の質問に答え、忍術を詳しく解説するのを見てメモを取った。

コンドルクラブは忍者クラブとなり、横走りをしてみたが、早くは走れない。何故忍者は横走りをするのか?

メモだけではなく、アニメ番組は毎回のように、レギュラー以外のサブキャラクターが出てくるが、これを把握しておくためには描き留めておかなければならない。だからテレビの前に板を置いて、そこにノートを広げ、番組を見ながら描いた。アニメは白黒だからグレーの部分が多いので、ボールペンで輪郭を描くと、黒と灰色の色鉛筆で着色していって、ノートがキャラクターで埋まっていった。

名前は忘れてしまってスイマセン母方親戚筋の偉いおじさん(左翼系)から、忍者とはどういうものか、レクチャーしてもらったことがある。
赤旗日曜版には村山知義の忍者小説「忍びの者」が連載されていた。

赤旗日曜版を毎週日曜日の朝、近所の12〜3件に配って小遣いを貰い出したのは何年生からだったか思い出せない。犬に吠えられる家が嫌だった。面倒臭くて何部か別の家に配ってしまったこともあるごめんなさいお父さん。あ、でも、党の宣伝になったからいいのか。

女性宇宙飛行士第1号のテレシコワ(ボストーク6号)が、旦那となったニコラエフ(ボストーク2号)と来日した時に、母と一緒にソ連大使館に行ったのは3年生の時だと思っていたが、ウイキペディアで確かめようとすると、来日は1965年9月だから4年生になっている。クラスで自慢したろうか?

母が作った折り紙のような小さな美術品を渡そうとモジモジしていると、もう車に乗って去るところになってしまい、「ほら、行きなさいよ」と母に背中を押され、勇気を出して走って行った。見上げると二人は巨大に見えた。ニコニコして品を受け取り、力強く握手してくれた。

やはり調べると日本社会党の招待なので共産党は関係ないはずなのだが、どうして行けたのか謎である。64年には日本共産党はソ連との関係を断絶しているのだ。

だが母は、スターリンが死んだ時、ソ連大使館に弔問に行ったそうだ。気が進まなかったが、党の女性部として末席に連なった。幹部女性が、ソ連国旗に向かって「スターリン大元帥閣下に敬礼!」と叫ぶと、母は失笑してしまった、と言っていた。「笑っちゃったわよ、わたし」
物心ついた時は、書記長はフルシチョフだった。
キューバ危機の記憶は全くないが、ケネディ暗殺の時は確か勤労感謝の日だからウチでは両親とも寝ていて僕が1番先に起きて、テレビで初の宇宙中継のニュースを見て驚き、父を起こした。「ケネディが殺されたってよ」。これは1963年だから3年生だ。その後のケネディが偉大だったという空気には違和感があった。望月三起也の「ケネディ騎士団」には批判的な気持ちになった。

父が勤めていた「日本機関紙協会」というところは、機関紙を発行している共産党系の労働組合が集合した団体で、学校のアンケートなどでの「父親の職業」は「団体役員」と書くことになっていた。

現在は共産党系とも限らなくなっているようだが、僕が考えるに、もともとの発想は、ロシア革命におけるソヴィエト(会議)から来ていたのではないだろうか。労働者、農民が、各地域や各工場でソヴィエトを作り、「すべての権力をソヴィエトへ」という合言葉によって第一次二月革命が成立した。

それと同じ考え方で、協会発足当初は各労働組合をソヴィエトに見立てて、そこに共産党の指導が入るが、やっているうちに協会と党が一枚岩でもなくなってくる・・・僕が覚えている父の意見の多くは共産党への批判で、「だからダメなんだよ共産党は」で締め括られる。だが、選挙では「共産党に入れてくれよな」となる。母は、もう殆ど意見を言わなくなっていったな・・・

1年生の終わり頃に戸塚廉という、戦前からの教育運動家が子供向きに書いた本『いたずら教室』というのを読み、教室で生徒同士で「はちのこ」という新聞を出している話が書かれていて、「ぼくも新聞を出してみたい」と言ったのかな・・・2年生の誕生日の、父からのプレゼントは「ガリ版謄写版セット」だった。

どんなものか見たことない人に説明するのは難しい。
ネットで中古のものを探すとまさにコレだ。

コレで、2年から3年にかけて、個人新聞「かぜのこ」をクラスで発行することになる。毎日曜日に刷って、月曜の朝、クラスの人たちの机に置いていった。
「1年続いた(2年続いた、だったかも)ぼくの新聞」というタイトルで、赤旗日曜版の記事になった。

to be continued…









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