2022年に読んだ本・4冊
去年(2022年)に読んだ本の感想を、いくつか書きとめます。
ふつう、こういう記事は年末に掲載するのでしょうが……。
昨年末は書こうと思いつかなかったので、このタイミングです。
もう1月もおわりじゃん。
4冊しか書いてませんが、読んだ本の数はもうちょっとありますよ~。
「1984」
ジョージ・オーウェル・作
高橋和久・訳
ハヤカワepi文庫
近現代文学における歴史的名著、でありながら未読だったので読んでみた。ビックブラザーが支配する全体主義の近未来社会。主人公のスミスはその社会システムに疑問を抱き、恋人のジュリアと体制への抵抗を試みる。
社会体制が人々を外側から支配しても、個々人の心だけは自由、社会体制が入り込むのは不可能などという前向きなメッセージをお手軽な商業用文学のみならず、ハリウッド映画からPOPSまで百花繚乱たる有様で喧伝するが(どんな困難があっても未来は変えられる、みたいなヤワな奴)、そんなメッセージは凡百の人間が抱く幻想と一蹴する苛烈な描写(焼いた刃を差し込むかのようなオーウェルの洞察力)に圧倒された。
解説は、ロシア系アメリカ文学者トマス・ピンチョンという豪華さ。ピンチョンの洞察が物語に厚みを加えるので、小説だけでなくこちらも一読をお薦めする。
「雪国」
川端康成・作
うつくしい日本語に触れたいと思い手に取る。つまりは詩のような文学である。と思いきや。
詩とは制度化されたコンクリート的土壌からは生れ得ないものと常々思っているぼくにとって、主人公の島村はコンクリートの日陰でコンクリートから養分を分けてもらう「うらなり」であった。
島村は社会的には何も生み出せない文弱であるが、資産はあるのでその手の中で小さな社会を支配できる。つまり芸者を意のままにする程度は可能である。手の中で自身より弱い者が壊れていく予感を「うつくしい」と観賞する程度の男である。小人物である。人物の心に悪がないので、実は作為を読者に気づかせないコスさがあるのだ。
コスさを巧みな技法と言い換えてもよい。繊細な気配りは日本人のお得意とする所ですからね、それが世界水準(という西洋水準)で評価された部分?とは冗談。学生時代に途中で挫折した理由が分かった。悪があれば別の詩になったのに。
と、けなしてばかりみたいになったが、日本語による美しい時間と空間は確かに存在した。
「複眼人」
呉明益・著
小栗山智・訳
海を漂流するゴミの島が台湾に衝突するが、その島には南国の少年アトレが乗っていた。子供と夫を失ったアリスは、間引きの為に海に流されたアトレと暮らす。
アリスという名は「不思議の国のアリス」からの拝借であろう。彼女が拾った猫(オハヨと命名。日本語の「おはよう」である)がウサギの役割で、常ならぬ世界へ彼女を誘う。
人間による地球規模の環境汚染をモチーフにした物語であるが、それはこの小説の縦軸であり、アリスの喪失感の行方が横軸となっている。地球の受けた傷の修復を試みる人達とアリスの受けた傷の快癒への兆しが描かれる。重要な登場人物を複数配することにより、人間の心の繊細な陰影が立ちあがる。
この物語に明快な解はない(どんな困難があっても未来は変えられる、なんていう奴。2回も言っちゃった)、解をもとめようとする姿勢がある。そこに頼りないが確かな温かさ、たとえば雨の止んだ後の冷たい草原でマッチで灯した火と、その火の為に風をさえぎる手のひらのようなものを感じた。
登場人物の語った印象的だった言葉を引用する。
「大人にはわからない日本文学史」
高橋源一郎・著
岩波現代文庫
高橋源一郎さんは、ぼくがすごく信用している作家さんである。それにぼくは、作家さんの文章読本だとか小説指南本をよむのも好きなのである。オタクの人の話を聞くと、その人の愛してやまない物への愛を感じて楽しくなるのだが、作家さんとは言わば小説オタクの最強なので、そんな方たちの小説愛が、文章読本や小説指南本に溢れているのである。それに触れられるのは至福の時間である。で高橋先生なら読んじゃうじゃん。
この本では「文学史」とは権威ある堅苦しいものでもなく、埃を被った古臭いものでもなく、それを使って誰も見たことのない物を作る玩具のようなものだと譬えている。全編を通して、「今」を見るために「過去」を通して見るという視点がある。この視点で近代日本文学史を俯瞰していくのだが、印象的だったのは自然主義的リアリズムが唯一の小説の技法ではないという考えである。
けれど自分を振り返ってみると、つい自然主義的リアリズムを使っちゃうなあ~と。つまり自然主義的リアリズムは便利だけども、それでは表現できない物について見落としているのかと気づかされる。
高橋氏が現代の小説を読んで(この本の出版は2013年だけどそんなにタイムラグはないだろう)気づいたのは、小説が大きな転換期に差し掛かっているということである。近代日本文学という過去を背負わない文学の登場(と、ぼくは解釈したのだけれど)、それが文学史をどう成長させるのか、と締め括られている。