“作家の映画”を読解する:『スリー・ビルボード』(2017)
『スリー・ビルボード』の脚本・監督を務めたマーティン・マクドナーは、もともと演劇畑の人でした。ロンドン出身のアイルランド人である彼は20代で劇作家として成功を収め、30代になってから劇映画に進出しています。アメリカの田舎町を舞台とする本作は彼の3本目の長編劇映画ですが、ヴェネチア映画祭で最優秀脚本賞を受賞するなど、国際的に高く評価されています。
英語圏の演劇人が劇映画を監督した例としては、マクドナーの他に、シェークスピア作品の映画化で知られるローレンス・オリヴィエとケネス・ブラナーの名前がすぐに思い浮かびます。しかし彼らは2人とも俳優出身であるためか、古典戯曲を脚色することはあってもオリジナル脚本は書いていません。これに対し、短編を含むマクドナーの劇映画はどれも彼が映画のために書いたオリジナル脚本に基づいており、演劇と映画という2つの芸術の違いを十分に踏まえた作りになっています。私が指摘したいのは、彼の映画は常に、ドラマツルギーの面で優れているだけでなく、映画のみに可能な表現も含んでおり、そうした映画的手法が構成上も重要な意味をもっていることです。
演劇がドラマツルギーなしでは成立しない芸術であること、そして“作家の映画”ではしばしば映像を重視するあまりドラマツルギーが弱くなり、その結果として観客が難解だという印象を受けてしまうことを考えれば、マクドナーのような映画作家の存在は貴重です。
本稿では、『スリー・ビルボード』のプロットやドラマ、映像の分析を通じて、以上に述べたことを例証していきたいと思います。
メインプロットとサブプロットの交代
『スリー・ビルボード』には“ジャンル映画”の属性がほとんどありません。マクドナーは好きな映画作家の一人としてクエンティン・タランティーノも挙げているようですが、この作品にはジャンル映画への偏愛が常に感じられるタランティーノ作品に出てくるような類型的人物は登場しません。しかしそれより注目すべきなのは、この作品のドラマがいわゆる“三幕構成”ではなく、限りなく二幕構成に近いユニークな構成をもっていることです。
映画の前半、物語の中心にいるのは中年シングルマザーのミルドレッド・ヘイズです。彼女は娘アンジェラに対する強姦殺人事件の捜査が進んでいないことを理由に、街外れの道路脇にウィロビー警察署長を非難するような広告板(ビルボード)を出します。その結果ミルドレッドは、ウィロビーが末期癌を患っていることを知っている街の人々や、彼の部下で母親と二人暮らしの短気な警官ディクソンと対立するようになり、息子のロビーや元警官で別れた夫のチャーリーからは、事件直前のアンジェラとの衝突について指摘されたりもします。
このように、映画の最初の三分の一ほどは、ミルドレッドが映画の原語タイトルにも含まれる「3枚のビルボード」を使ってウィロビーを名指しで批判したことに起因する周囲との衝突が描かれています。状況は全体としてミルドレッドに対して不利に働き、彼女は匿名の“警察嫌い”の人物が送ってきたお金で辛うじて広告板使用料を払い続ける始末です。観客はミルドレッドがこの状況から脱すること、つまり余命僅かなウィロビーや街の人々と和解し、彼らの協力を得て娘を殺した犯人を探しだすことを期待するでしょう。それが主筋(メインプロット)に、ディクソンが広告代理店の責任者レッドや彼と一緒にビリヤードをしている小人のジェームズにからむシーンなどは副筋(サブプロット)に属するように見えます。ところが、メインプロットの鍵を握るはずのウィロビーは、上映時間半ばにも達しない時点でピストル自殺してしまいます。
ウィロビーが死んだあと、それまではネガティブな副次的登場人物という印象しか与えなかったディクソンが、急にドラマの中心に躍り出てきます。署長の自殺を知った彼は、道路を挟んで警察署の向かいにある広告代理店に乗り込んでレッドを殴り、彼を2階の窓から放り出します。ディクソンは黒人の新しい警察署長にそれを目撃され、彼に対して反抗的な発言をした直後に免職されます。
一方、ミルドレッドが働いている土産物店に短髪の男がやってきて、商品を彼女に投げつけて壊したあと、テレビで彼女を知っているといって自分がアンジェラ殺害の犯人であるかのような挑発的な言葉を漏らし、彼女が確認しようとすると今度は否定します。険悪な雰囲気になりますが、ちょうどアンがウィロビーからのミルドレッド宛の手紙を届けに来て男は去ります。この手紙からミルドレッドは、ウィロビーが実は彼女の看板広告を評価していたこと、彼が次の1ヵ月分の費用を払っていたことを知ります。しかし間もなく、その看板が夜間に何者かの手で焼かれます。車で通りかかった彼女と息子のロビーは消火を試みますが間に合わず、パトカーがやってきます。新しい署長から彼女を逮捕する理由がないと言われても、彼女は怪しい男の話もせずにその場を去ります。
翌日、昼間から自宅で飲んだくれていたディクソンは母親に看板の放火について話し、「俺がまだ警官なら捜査してたよ」と言います。その時、巡査部長から彼に電話がかかってきて、アンが彼宛のウィロビーからの手紙を届けにきたので、皆が帰ってから取りに来るように伝えます。故人は妻やミルドレッドだけでなく、ディクソンにまで手紙を残していたのです。
夜、警察署に手紙を取りに行ったディクソンは、故人が彼のことを「本来まっとうな人間」であり「いい警官になる素質がある」と考えていたことを知ります。「だが憎しみを募らせたら」彼は憧れの刑事にはなれない、刑事になるのに必要なのは愛だと、ウィロビーは彼宛の手紙の中で説いています。イヤホンで音楽を聴きながら夢中になって手紙を読みつづけるディクソンは、ミルドレッドが通りの向こうから警察署に手製の火炎瓶を投げて放火し、1階全体に炎が回っていることに気づきません。自分がいる2階の窓に火炎瓶が投げ込まれてようやく事態に気づいた彼は、アンジェラ殺害事件のファイルを持ち出すことに成功しますが、顔や体に火傷を負って入院する羽目になります。病院でレッドと同室になった彼は、レッドに謝罪します。
サブプロットにすぎないと思われたディクソンとレッドとの確執は、前者の改心によって解消されたことになります。警察を信用せず、不審な男に関する情報を知らせもせずに、不合理な「復讐」によって彼に火傷を負わせたミルドレッドに比べて、ディクソンの行動は理性的に見えます。以下に述べるように、この対照は映画が終盤に近付くにつれて大きくなります。
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