“作家の映画”を読解する:ジャンル&物語世界 VS ドラマツルギー
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本稿では、「“作家の映画”を読解する」シリーズで取り上げた劇映画作品だけでなく、連続ドラマを含むフィクション映像作品に共通するトピックを扱います。フィクション映像作品の鑑賞だけでなく創作にも役立つ内容になればと思います。本稿で取り上げる作品は“作家の映画”に限らず、“ジャンル映画”に分類されている劇映画やテレビドラマも含まれています。
筆者が本稿で肯定的に評価する作品はすべて、何らかの意味でドラマツルギー的な一貫性とユニークさを感じさせる作品です(具体的には、『スキャナーズ』、ドラマ『GALACTICA/ギャラクティカ』、『サークル 繋がった二つの世界』)。やや否定的に評価する作品は、映像や音の表現に作家性が感じられるにもかかわらずドラマツルギー的に弱い作品です(具体的には、映画『デリカテッセン』、『ライトハウス』)。また、中立的な評価を与えている作品もあります。芸術的手法としては邪道であるジャンルのパロディを全面的に導入している娯楽作品です(映画『タッカーとデイル 史上最悪にツイてないヤツら』、『ハッピー・デス・デイ』)。
本論全体を通じて、私はしばしば映画批評で過大なほど重点を置かれてきたジャンルの概念に対して、ドラマツルギーの概念を対比させています。“作家の映画”においては、『パラサイト 半地下の家族』に関して評されたように「既存のジャンルに当てはまらない」というのは決して珍しいことではありません。むしろそれが通例だとさえ言えます(”ジャンル映画”が盛んに制作されたソ連映画の黄金時代に、「アントニオーニはどんなジャンルで仕事をしているだろうか」とタルコフスキーは問うています)。
前置きはこのくらいにして、本題に移ります。まず初めに、この二つの概念に関して、それらがフィクション映像作品にとってどんな意味をもつのか私見を述べたいと思います。
”ジャンル”と”物語世界”との単純でない関係
実写かアニメーションかとは無関係に、映像作品にとってジャンルの概念は第一に「商業的」な意味を持っています。特定のジャンルにはその愛好者が一定数いて、彼らは「作者の名前は初めて聞くがジャンルが~だから一応観ておく」という態度で観始めることが多いからです。欧米で「アートハウス "art house"」と呼ばれているジャンルは“作家の映画”を含みますが、それよりも範囲が広く、やはり商業的な分類と見做せます。
限られた時間で何を観るか迷っている観客や視聴者に対して、配給業者や配信業者はジャンルという分類法を採用することで効率的にアプローチします。映像作品のジャンルは、脚本家が誰だとか監督が誰だとか、過去にどんな作品を作ってきたかとは関わりがなく、また出演者の知名度や演技力とも無関係です。それはほとんどの場合、プロットと設定(時代設定、人物設定、舞台となる“世界”)のみによる分類です。
つまり、映像作品に対して一般的に採用されているジャンル分類法は、作品の技術的水準や芸術的な質とは全く関係がありません。この事実からだけでも、映画ジャンルの概念を中心に据えた映画批評は作品の芸術性について深い考察はできないであろうことが予想されます。
プロットの定型と時代設定や人物設定等、ジャンルの分類基準によって決定されるのは、物語世界です。伝達手段が映像と音であるか文字であるかを問わず、このことは物語作品全体に共通していると言えます。「物語世界」は、映画研究や物語論の中では「ディエジェーズ」と呼ばれることがありますが、この用語はフランス語で(英語では ”diegesis”)、もともと美学者エチエンヌ・スーリオの映画学的論文で提唱され、後にジェラール・ジュネットらに代表される文学の物語論に導入されたものです。フィクション映像作品における物語世界は、主に動く映像と音によって観客に提示されますが、字幕や台詞によって詳細が補足されることも少なくありません。
映像作品において、物語世界は主人公その他の主要な登場人物の行動を描写したり彼らの知覚を表象したりする映像と音を通じて、観客や視聴者に示されます。劇映画やドラマのプロットは彼らの行動を中心に組み立てられているため、映像と音及びそれに付随する言葉は、彼らの性格や外見的特徴や能力といった人物設定はもちろん、彼らが活動する物語世界の特徴もはっきり示すことになります。
小説では登場人物の性格や彼ら同士の関係性を示す会話と「地の文」とは明確に分かれていて、物語世界の設定や描写は後者で行われるのが普通ですが、劇映画やドラマでは会話と物語世界の提示とが同時に行われます。そのため、映像作品では小説よりもジャンルと物語世界との結合が強く現れることが多いのです。
ある作品の制作に際して作者によって選択されたジャンルの特徴は、物語世界の性質に反映されます。小説において物語世界は登場人物と同様に物理的な実体を持っておらず、作者にはそれを「まるで目に見えるように」描く必要もありません(映画の発明以降、19世紀の長編小説に顕著な細部描写は次第に減りました)。しかし映像作品では、どれほどあっさり描こうとしても物語世界は登場人物と同じ程度に物理的な実体を持っているように「見える」のです。
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