“作家の映画”と“普通の映画”とはどう違うのか
“作家の映画”とは何か 。普通の映画とどう違うのか。
本稿では、一般観客である読者のためにその疑問に分かりやすく答えるとともに、“作家の映画”を鑑賞する際の注意点を述べたいと思います。
“作家の映画”とは、その作者である監督が、映画という芸術の本質を探究しつつ創造する映画です。“探求”の過程で発見された何かは、その映画作家の個性的表現として結実するわけです。それぞれの映画作家によって探求の道筋は違い、彼らの創作環境も違います。なので、彼らの映画観や彼らが選ぶ映画史上の「好きな映画」は決して一様ではありません。しかし、彼らの発見は、それが映画の本質に近いものであればあるほど専門家に注目され、やがて一般観客にも価値を認められてゆきます(評価の確立には30年以上かかるのが普通です)。
既存の権威(政治的なそれであれ、文化的なそれであれ)を盲信するタイプの人は、“作家の映画”に限らず、総じてどんな芸術作品の鑑賞にも向いていません。芸術作品は盲信ではなく主体的思考と内省を要求するものです。この事実だけは動かすことができません。ですので、自分が権威に弱いタイプに属すると自覚している方は、“作家の映画”には一切関わらないのが賢明でしょう(肉親や友人に“作家の映画”を愛している人がいてその人と映画について論じたりすれば、いずれ喧嘩になります)。
別の芸術分野への関心が深く、最近映画にも関心を持ちはじめたという方には、以下のことに注意していただきたいと思います。
歴史的に見れば、劇映画は長編小説や舞台芸術から多くの要素を取り入れましたが、現在ではそれらから完全に独立し、別の芸術になっています。しかし、普通の映画では、商業的な理由から、まだ小説や演劇の「へその緒」に依存していることが少なくありません。ドラマツルギーと呼ばれているものは、実は近代小説や近代演劇への依存の名残です。脚本の出来がいいとか悪いとかは、おもにドラマツルギー的観点からの評価です。一般観客にとって“感動的な”劇映画のほとんどはドラマツルギー的に見て優れています。最近の例では、フランス映画『最強のふたり』(2011)などがそうです。
多くの映画作家は、最初の長編劇映画を作る際、ドラマツルギー的に破綻していないことがデビューのために必要なことを理解しています。国際映画祭で最高賞や準グランプリでも受賞すれば別ですが、それまではドラマツルギーという近代小説や近代演劇の遺産を無視できません。また、“作家の映画”は文化的・経済的な真空状態で制作されるわけではありません。“作家の映画”に分類される劇映画の多くは、ドラマツルギーに全面的に依存することなく、部分的にそれを利用しています。なので、ドラマツルギーの基礎であるアリストテレスの『詩学』や、西洋近代演劇の代表作(シェークスピア、イプセン、チェーホフなど)、ドストエフスキーの主要な長編小説などは読んでおいたほうがよいのです。
映画のドラマツルギーに芸術の側面があることは決して否定できません。それを追求する人々が脚本家です。しかし芸術としての映画の本質はそこにあるわけではありません。
“普通の映画”は、ほぼ全面的にドラマツルギーに依存しています。そのような作品はおそらく映画産業において市場の90%以上を占めています。アカデミー賞はどちらかといえば“作家の映画”ではなく、“普通の映画”を対象としています。
映画の本質を探究している“作家の映画”は、難解であるとは限りません。また、“映像が美しい”とも限りません。ただ、“作家の映画”には、ドラマツルギー的な観点からは余分に見える何かがあったり、どこか不十分なところがあったりするのです。そのような映画の作者は、ドラマや物語に属さない部分にも重要な意味を込めているからです。
ですので、“作家の映画”に属する劇映画を十分に理解しようとすれば、ドラマツルギー的な分析を行ったあとで、その観点からは余剰物や欠損に見えるような要素の意味を考えるという、二重の分析が必要になります。私のような映画の専門家は、その二重の分析を一回の鑑賞で直観的に行っていることも少なくありません。しかし、なぜあれこれの要素が他でもないその場所に置かれているのかを理解するには、通常もう一度観直すことが必要です。そのような鑑賞方法では、感覚と知性とを最大限に働かせる必要があり、観客に精神的な負担を強います。なので作品によっては作者が意図的に物語の展開をゆるやかにしている場合もあります(タルコフスキーの後期作品がそうです)。
ここで間違ってはいけない重要な点があります。どんな劇映画にも、ドラマや物語には属さずに観客が直観的に捉えることのできるさまざまな要素が含まれています。例えば、ショットの構図や色調から感じ取ることのできる“映像の美しさ”、編集やカメラの動きから感じ取ることのできる“テンポのよさ”や“ゆったりとしたリズム”、連想を誘う効果音や音楽などです。しかしそれらの要素は、単独で作品の芸術性を保障するものではなく、作品全体の構成を無視して評価すべきではありません。映画は時間芸術なので、作品の構成は時間軸に沿った観客の知覚を考慮して行われます。あれこれのシーンでどの部分のカメラの動きやショットの構図が気に入った、などというのは通ぶった素人の感想に過ぎず、演奏時間が40分の交響曲や20分の協奏曲の中で5秒のフレーズだけを取り上げて評価するほど馬鹿げています。
私が「“作家の映画”を読解する」というシリーズで行っている作品分析は、学術用語を用いず方法論的な厳密さにもこだわっていないという意味で“一般観客にもできる”種類のものです。そこでは作品分析の方法を皆さんに提案しているわけではなく、私があれこれの作品を一度観たり何度か観直したりすることで理解した映画作家たちの映画的発見を、筋道立てて説明しているだけです。そのことによって私は、傑作の意味深さやその価値の永続性を確認するという個人的目的を兼ねて、“作家の映画”に属する劇映画の鑑賞という行為の実例を示しているつもりです。
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“作家の映画”を読解する(2)
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