作家の映画を読解する:フィルム時代の終焉が意味するもの
かつて映画撮影に用いられていたフィルムは、非常に高価です。10分程度の映像を撮るために、35mmであればフィルム代でけで5万円ほどかかったと思います。各ショットが1テイクで済むはずはないので、2テイク分ならは10万円、しかもこれは映像ネガだけの値段です。カメラも高価なものでしたし、上映用のフィルムが完成するまでには、編集用のポジ、磁気テープ、音ネガなど、制作者が購入しなければならない素材だけでも相当な負担だったのです。16mmフィルムさえ、それで一本の長編映画を撮ろうと思えば、4K画質のかなり高性能なヴィデオカメラの数倍の予算が必要だったはずです。
21世紀に入ってフィルムと比べて遜色がない高画質デジタルヴィデオで映画の撮影や編集が行えるようになったことは、単に映画制作の効率化を意味するだけでなく、経済的な面でも技術的な面でも映画芸術の自由度を広げる革命的な変化だったと言えます。過去30年の”現代”映画史は、フィルムからデジタルへの漸進的な移行過程と捉えることができます。
トルコのヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督は、『うつろいの季節』(2006)を全編2Kのヴィデオカメラ(シネアルタ)で撮影しました。主演は監督と彼の妻であるエブル・ジェイランで、映画はカンヌ映画祭で国際批評家連盟賞を受賞しています。2000年代後半に偶然ロシア製のDVDで『冬の街』(2002)を観て感銘を受けていた私は、今度は『うつろいの季節』をアメリカのアマゾンで探して購入しました。
その後ジェイランは一度もフィルムに回帰することがなかったのですが、その理由を2011年のNY映画祭におけるインタヴューで明快に語っています(23分11秒以降)。この年に彼は、4K画質のデジタルヴィデオで『昔々、アナトリアで』を発表し、カンヌでグランプリを受賞しています。
以下に、このインタヴューにおける彼の発言をいくつか引用しておきます。
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