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漢字を使うかひらがなを選ぶか?文章表現の選択で変わる印象

パソコンで文章を書くと、自分では書けないような漢字でも次々と変換して入力することができる。大概の人は書けなくても読めるものだから、漢字だろうがひらがなだろうが、そこまで気にしないかもしれない。私も人の文章についてはそこまで気にしないのだが、自分が書く文章のときはこだわっていたりする。こだわるといってもそれほどギチギチなわけでもなく、なるべくならやわらかい印象を持たせたいというくらい。具体的には、迷ったらだいたいひらがなを選択している。

たとえば「事」、「為」、「又」、「尚」といった言葉は、すべてひらがなで使いたいタイプ。いちいち漢字にする人もいるが、なんとなくかっこつけている感じがするのだ。ビジネスメールでも「よろしくお願いいたします」と書くし、「躊躇う」ではなく「ためらう」だし、なんならここまでで既に「こだわる」だったり「たとえば」だったり「すべて」だったり、いずれもひらがなで書いている。

やまのこのはこぞうというだいめいはひらがなすぎてわからなかった/やすたけまり

ひらがなもあんまり多用すると訳がわからなくなる。とりわけひらがなが好きだというわけではなく、何事もバランス。客観的に見ると、自分の文章はひらがなが多めだと思うという話だ。

反対に、あえて漢字を使ったことでおもしろいこともあった。

とある内部資料を作成した際、「特定のものを集めている」というニュアンスを伝えたくて「蒐集」という文字を使ったのだが、私の文章を確認した人からOKをもらった後に、ぼそっと「ちなみに、これ何て読むの…」。あえて「蒐集」と書いたことに大きな意味があったのに、伝わらなくて悲しい思いをした。蒐集は収集の別表記。収集でもまったく問題ないが、コレクション的な意味合いを含めるなら蒐集だろう。

するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロくちにほおばりながら/村木道彦

こちらは口語短歌であり、ひらがなを使っていることも特徴的な一首。ひらがなを使うと童話的な親しみやすさが出るが、その実、奥深いことや陰鬱なことを隠してしまう特徴があると思う。この短歌も、元恋人の残酷さを語っているはずが、ひらがなの効果で軽やかなものに変わっている。

インターネット上での動画の普及で映像全盛の時代だが、まだまだ世の中は文章で動いている。ひらがなで書くか漢字で書くかは些細なことだが、それなりの違いを生むことには敏感でありたい。


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