見出し画像

吉田秀和が語るバッハの至高の作品『ロ短調ミサ曲』

自分が楽器をやっていることもあって、クラシック音楽には特別な思いを持って触れてきた。昨年か一昨年だったか、クラシックを本気で語ってみたいと思い、参考にと音楽評論家の第一人者である吉田秀和の本を購入した。

『私の好きな曲』というタイトルなだけあって、著者の独断で選んだ曲がずらりと並んでいるのだが、その中に自分も好きな曲が入っているとどんなことが書いてあるんだろうと興味をそそられる。

最も興味を引いたのはバッハの『ロ短調ミサ曲』。私自身、数年前に演奏に参加したことのある大曲で、とても思い入れがある。吉田秀和がこの曲の項目で書いていることもとても熱い。冒頭からこうだ。

バッハは、バッハの作品は、私にとっては、ヨーロッパ音楽のアルファでありオメガである。いや、始まり――というより土台であり、また、その最高の究極である。私にとっては、音楽をきくということは、特にそれがヨーロッパ音楽である場合は絶対に、多かれ少なかれ、バッハの音楽をきいているときのその経験を土台にして、きいているといってよい。その理屈をこまかく、ここで、書くことはできない。いや、ここだけでなく、私にはいつまでたっても、できないかもしれない。だから、私は、もっと、ひらべったく「音楽とは何か? ということを、自分はバッハの作品によって知った」といっておけばよいのかもしれない。

吉田秀和『私の好きな曲』198ページ(ちくま文庫)

初っ端、この熱量である。バッハの音楽がいかに優れているのか、書いても書き切れないという思いに溢れている。あまりに熱いので、本当は全部抜き出さないと著者の意図するところが正確に伝わらないことは重々承知しているのだが、そうするわけにもいかないので大胆に省略。そんなバッハの音楽の中でも、とりわけ最高の音楽と讃えるのが、『マタイ受難曲』とこの『ロ短調ミサ曲』なのだ。ところが、どちらも最高だと評するにもかかわらず、『マタイ』は数回しか聴いたことがなく、『ロ短調』はときどき聴いていたという。

こんなすごい曲は、一生にそう何回もきかなくてよい、と考えている。この曲は、私を、根こそぎゆさぶる。
(中略)
『マタイ受難曲』は恐ろしい音楽だ。話ももちろんのこと、レチタティーヴォが多く、全曲としてはるかに長大なのも、きき通すことの困難さを増す。それからまた、単純にして痛切なコラールの表現性の峻厳さ。
 それに対し、ミサのほうは、信仰の音楽である。それもベートーヴェンのあの「平安」を求めての凄絶な苦闘や哀願にみちた荘厳ミサ曲とちがい、こちらは――評家たちが口をそろえていうように――勝ちとられた平安、神へのゆるぎない信頼、あの尊崇の念が、大本にどっかりとすえられたうえで、築かれた大聖堂である。

吉田秀和『私の好きな曲』203-204ページ(ちくま文庫)

平易にして的確な表現である。音楽を語るとはこのようにするものなのかと、読みながら感心し通しだった。そう、ロ短調はときどき聴くけれども、マタイはそうそう聴くような曲ではない。凄すぎて。そんな馬鹿なと思われるかもしれないが、本当にそういう曲なのだからというしかないのだ。嘘だと思うなら聴けばわかる。

『ロ短調ミサ曲』を聴きながらここまで書いてみた。こうして聴いていると、聴いたらわかるのだからわざわざ文字におこすのが面倒になるのが正直なところだ。でも、この素晴らしさをなんとか伝えたいという思いもまた事実。今後ゆっくり時間をとって、私版の『私の好きな曲』を書いてみたい。

いいなと思ったら応援しよう!