見出し画像

フードエッセイ「アイスクリームが溶けぬ前に」 #32 尾張屋(浅草)

役割・立場を背負いすぎて苦しむこともあれば、
係やポジションを与えられることが嬉しかった時期がある。

修学旅行の食事係。

小学6年生の少年にとって、班長よりも食事係に魅力を感じたのは、食事係に昼ごはんのお店決定権があり、あるお店にみんなを連れていきたかったからだろう。


浅草・上野を班行動することが決まったとき、父と美味しいお店探しをしたことが今でも忘れられない。

地下鉄で東京メトロ・浅草駅に到着し、「地元で美味しいお店は観光案内所に聞け」という言葉に従う。年配のおじいさんから教えてもらったのが、老舗蕎麦屋の「尾張屋」だった。


尾張屋は支店と本店があり、本店を訪れる。2階席に通され、ざるそばを頼むと、そばと一緒に蕎麦湯が出てきた。それまで蕎麦湯を飲んだこともなければ、蕎麦湯の存在すら知らなかった。そばの香り以上に、蕎麦湯の美味しさがの記憶が強く残ったのは言うまでもない。

この食感動を、みんなにもシェアしたい。尾張屋に行くことが決まると、父は喜んでいたように記憶している。そんな思い出がつまった尾張屋に、5年ぶりに戻ってきた。


前回何を頼んだか覚えていないが、今回は冷たいそばにしようとは決めていた。それは、冷たいそばには蕎麦湯がついてくるから。これも尾張屋に初めて行ったとき、教えてもらったんだ。


天せいろ。エビの天ぷらが食べたくてオーダーする。
ソワソワしながら待っていると、別で頼んでいた“なす田楽“が到着。蕎麦を少し食べてからにするよと伝えたが、ほんのり湯気が上がっているのをみて、やっぱり今食べるわと先に一口。やわらかいナスに甘めの味噌が馴染んでいて、無限に食べられそうだ。


と口の中が喜んでいると、
「天せいろはどちらかな」と年配の店員さんが運んできた。


蕎麦なんだけど、細麺の二八蕎麦なのでツルッといけちゃいそうだ。天ぷらは置いといて、まずは蕎麦単体でいただく。


香りを感じつつ、それ以上に滑らかに食べられることに驚く。これは何枚あっても足りないくらいだ。忘れてないぜ、海老さんよ。何もつけずに単独でいくと、思った以上に身が詰まっていて昇天してしまった。麺つゆにつけても、蕎麦と一緒に食べても、美味いが溢れてくる。次は「蕎麦屋の天ぷら、カレー南蛮は美味しい」って言葉があるのを確かめてみたい。もう終わってしまうのか…と名残惜しい気持ちを抱えていると、楽しみにしていたもうひとつが登場。



何も言わず、さっと卓に置かれた蕎麦湯。
暖をとりたかった身体に、ほんのり柚子の香りをまとった蕎麦湯が染み渡っていく。あっという間に蕎麦湯も終わり、お会計を済ませる。

師走の東京・浅草の人の流れは早い。
だが、尾張屋で過ごす時間はそれに抗うように、ゆったりと流れていた。それは単に、そこでの時間が濃密だったからではなく、誰かと過ごした記憶や時間を思い出していたからなのかもしれない。


蕎麦のいろはを教えてもらった尾張屋に向かって、「ごちそうさま」を伝えたい。


いいなと思ったら応援しよう!

おおばしゅう
いただいたサポートは、Podacast「人生百貨店」の運営費やいろいろな言葉・感情に出会うための本や旅に使わせていただきます!