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気流の鳴る音  真木悠介  ちくま学芸文庫

 「この本読んでみてよ。難しい、とにかく、難しい本」と息子に言われた。なんでそんな難しい本を私に読ませようと思ったのかと聞くと、「読んでおくべき本だから」と。そうかあ、チャレンジだ。


★序 – 「共同体」のかなたへ

アフリカ人は視力にすぐれ数キロ先の動物なども肉眼で見える、というのはよく聞く話だ。活字を知った人間の眼はだめになっているとも。しかし、この本を読んで、うかつだったと思ったのは、私はなぜか「眼」に限定してこの話を聞いてしまい、ほかの感覚のことは考えていなかったと思い至ったからである。この本の冒頭に出てくるのはいわゆる未開部族の青年の聴力の話。つまり、ことは感覚全般の問題だった。

最初に真木は言う。「自然とか宇宙のうごきにたいする感応の深さやゆたかさが、、、、失われたとき、きりつめられ貧困化された感性と理性とは、それなりで自己充足的な明瞭さの空間を張って安住し、通常は喪われた諸次元について思いをはせることもない」

 まさしく私のことである。私は喪われている感性と理性に思いをはせることもなく生きており、かつそうやって生きてきてさしたる問題はなかった。そして? ここから、この論はどう発展してゆくのだろう。

 序論では山岸会に触れたあと、紫陽花邑(あじさいむら)という共同体が紹介されている。

「身体障害者がたとえば片手で食事をする。ごはんをこぼしたり奇妙な身の動かし方をしたりする。それは一般の人間にはコッケイだという感じを与える。しかしそれを笑ったりすることは許されないことだ。というのが一般の良心的な差別反対運動の精神である。けれども紫陽花邑ではちがう。おかしいものはおかしいやないか、といって屈託なく笑う。その本人もいっしょになって笑う。それが紫陽花邑の世界だ」。

こういう考え方をする人がおり、かつ実践している人たちが、障害者本人も含めて、存在するっていう事実に非常に救われる思いがする。

 最近、テレビを観るということはイコールおかまを観ること、という状況になりつつある。ほとんどの番組にいるからである。おかま、気持ち悪いっていう感覚は私は人間として非常に当然かつ健全な感覚だと思う。それを、「そういうふうに感じちゃいけません」なんて人の感性を否定するのは、まさしく基本的人権の侵害であろう。

 「なんか気持ち悪い」って思うことと、相手を人間として否定することは同じではない。例えば、テレビではおかま(この表現はもう古いかな、ゲイとかおねえとか言うべきなのか)の意見が求められることが多い。ラーメンの味から政治情勢まで、おかまたちは多岐にわたり実にいろんなコメントをする。驚くのは、その意見が至極まっとうかつ健全なことだ。性的な正常人ぶっている人たちよりはるかに歪みがなくかつ洞察力にすぐれたことを言うのである。私はある意味、おかまを尊敬している。しかし、気持ち悪い。

 この本にはカルロス・カスタネダという人物の言説の引用が頻出する。どんな人であったかの詳細はウィキペディアを見ていただくとして、1925年ごろペルー生まれ、1998年没のアメリカの作家・人類学者である。

 真木はカスタネダの著作をたたき台として、人の生き方モデルを座標図化している。このモデルに基づいて本の記述が進められているので、まずはこの図を理解しておく必要がある。

アースダイバーの図

 上図のように、生き方に関して4つの主題の象限(I、II、III、IV)が提示されている。それぞれの象限モチーフは次のように名付けられている。

I カラスの予言 - 人間主義の彼岸
II 「世界を止める」 - <明晰の罠>からの解放
III 「統禦された愚」 - 意志を意志する
IV 「心のある道」 - <意味への疎外>からの解放

 これらの象限の軸は2本ある。1本は図を上下に貫く『「世界」からの超越(彼岸化)』と『「世界」への内在(此岸化)』を結ぶ軸、もう1本は図を左右に貫く『<世界>への内在(融即化)』と『<世界>からの超越(主体化)』を結ぶ軸である。

 図の中央に第I象限から始まって第IV象限まで円を描く矢印がある。各象限はこの順序で発生してゆくものあるいは発展してゆくものとして並べられているわけではない。この順序で考察してゆくのが分かりやすいという真木のサジェッションである。

 詳細はこれから本文で説明されてゆくわけだが、その前に2点。

 まず1点目。上下軸では「世界」と「 」で囲まれているが、左右軸では<世界>と<>で囲まれている。これについての真木の説明はこうだ。

 (引用はじめ)「世界」と<世界>のちがいについては、それ自体本文の全体を前提するので、あらかじめ正確に記述することはできない。とりあえずこうのべておこう。われわれは「世界」の中に生きている。けれども「世界」は一つではなく、無数の「世界」が存在している。「世界」はいわば、<世界>そのものの中にうかぶ島のようなものだ。けれどもこの島の中には、<世界>の中のあらゆる項目を取り込むことができる。夜露が満点の星を宿すように、「世界」は<世界>のすべてを映す。球面のどこまでいっても涯がなく、しかもとじられているように、「世界」も涯がない。それは「世界」が唯一の<世界>だからではなく「世界」が日常生活の中で自己完結しているからである。(引用終わり)

 真木が提示する<世界>と「世界」については、部屋に置いてある金魚鉢に金魚が入っている状態と考えれば分かりやすいと思われる。<世界>という部屋の中に「世界」という金魚鉢が置いてある。部屋は1つだが金魚鉢は何個でも置くことができる。金魚鉢は部屋の温度や場所など、部屋のあらゆる項目を取り込む。金魚は金魚鉢の中をいつまでもいつまでも、ぐるぐると無限に泳いでいられる。つまり金魚にとって金魚鉢に涯はない。そして、金魚鉢だけで日常生活が自己完結している。

 それから2点目。横軸にある融即(化)という言葉である。私はこの言葉を知らなかったのでウェブで調べた。融即とは別個のものを区別せず同一化して結合してしまう心性の原理をいうとあった。


★第I象限 カラスの予言 - 人間主義の彼岸

第I象限は『「世界」からの超越(彼岸化)』と『<世界>への内在(融即化)』に囲まれた象限である。金魚が金魚鉢という境界を超越して金魚鉢には囚われることがなくなり、部屋の一部になりきって自分の金魚鉢以外のことも区別なく受け入れる、ということだと言えようか。そのことを真木はどう表現してゆくのだろう。カラスの予言とは一体何か。繰り返すが、第I象限とは初歩あるいは第一歩ということではない。等価な4つの象限のうちの1つである。

カリフォルニア大学の人類学専攻学生であったカスタネダはインディオに伝えられてきた薬草の使い方を知りたくて、インディオの老呪術師、ドン・ファンに弟子入りする。だが、ドン・ファンと何度面会しても、薬草の使い方を教えてもらえない。いつも、歩き回ってそのへんに生えている植物を見ているだけ。カスタネダは苛立つのである。

 このすれ違いが生まれた原因は、カスタネダはただインディオの薬草の使い方を知りたかっただけだったのに対し、ドン・ファンは使い方を知るためにはその前提条件として植物と仲良くなりその植物と彼我の境界なく一体になれる必要があるという考えを持っていたことにあった。言い方を変えれば、一方は消費することにしか関心がなく、一方は再生および持続的利用(つまり共生)を大切にしていたということである。

 真木は言う。カラスの鳴き声、トンボの翔び方、カエルの行動が何かの予言、予兆であるという言い伝えがある。ただし、これらを予言として捉えるには自然への共感能力が必要だ。水俣病の存在が明らかとなる前、海の魚や猫の挙動に異常がみられていた。それを予告と捉える感性があれば、水俣病はあれほど広がりを見せずに済んだのではないか。人間主義(ヒューマニズム)は、人間主義を超える感覚によってはじめて支えられうる。

 真木はさらに思考を進める。カラスの予言というような予兆を読み取る能力は、われわれの「世界」の中にも知識や知恵として切り取って取り入れることはできる。しかし、それが可能なのはこのような知恵を生成する母体があるからだ。

 この「母体」を真木はこれからどのように解明してゆくのだろうか。何かが「ある」というのか、それとも、これが母体だと形にして提示できるようなものはないが何もないとも言えないというような「人間には分からないもの」という結論に到るのだろうか。

 真木は言う。カラスの予言を、日本人は日本語で聞きアメリカ人なら英語で聞く。ヨハネの福音書にある「はじめにロゴス(言葉)ありき」であり、我々の生きる「世界」はロゴスによってはじめて構造化された「世界」として存立する。

 真木は「世界」の根源はロゴスだと考えているようだ。では、<世界>の根源は何か、そして「母体」との関係は?


★第II象限 「世界を止める」 - <明晰の罠>からの解放

第II象限は『「世界」からの超越(彼岸化)』と『<世界>からの超越(主体化)』に囲まれた象限である。金魚が金魚鉢という境界を超越して金魚鉢には囚われることがなくなり、さらに金魚鉢が置かれている部屋をも超越し包含する、ということだと言えようか。しかし、それは具体的にはどういうことになるだろうか。

 (引用)
 カスタネダが「コヨーテと話した」体験を総括してドン・ファンはいう。
 「おまえはただ世界を止めたんだ。」
 「その止まったものってなんだい?」少しあとでカスタネダの質問にたいし、ドン・ファンはまた、こう説明する。
 「人が世界はこういうものだぞ、とおまえに教えてきたことさ。わかるか、人はわしらが生まれてきたときから、世界はこうこうこういうものだと言い続ける。だから自然に教えられた世界以外の世界を見ようなぞと言う選択の余地はなくなっちまうんだ。」(引用終わり)

 これは何を言っているのか。自我意識のことではなかろうか。

 おぎゃあと生まれた瞬間から「僕は僕だ。ほかの誰でもない」なんて思っている赤子はいない。それが、物心がつき、他者から名前を付けられた自分というものを認識しはじめ、自分のお箸や茶わんを与えられ、自分のおもちゃを持つ。そして、お前を取り巻いている世界はこういうものだぞと折に触れて他者から教え込まれるのだ。

 そういう「自分や世界とはこういうものだ」という最初は他者からの、そして成長してからは自らも刷り込んだ自我という区別に基づく認識を基準として、良いだの悪いだの、好きだの嫌いだの、あるいはこれは自分のことだがこれは自分のことではないと判断する、そういう「世界」が止まったのだ。形成されてきた「これが自分だ」が止まったのだ。コヨーテと話した時、つまりコヨーテと一体になったときに。

 ドン・ファンは理想の人間像を「知者」と呼び、「知者」へと至る途上には4つの敵があるという。その1つが「明晰」である。知に至るのになぜ明晰が妨げとなるか。それはこういうことだと思う。

「明晰」とは、今、分かった、あるいは、すでに分かっているという状態だと言えよう。「分かった!」と思ったということは、自分がこれまで構築してきた知識なり思考なりの体系の中にそのことがらの居場所をあてがうことができたというだ。つまり、それは従来通りの世界がほんのちょっぴり膨らんだだけにすぎない。

 だからといって、「魯鈍であれ」ということにはならない。ボーっとして鼻水をすすっただけで一生を終えるのは虚しすぎるだろう。明晰さは悪ではない。何に対しての明晰さかという違いはあれど、とにかく明晰さというものがなければ人は生きてゆけない。問題は明晰さにかまける、あるいはふけりこむことなく、明晰さを使いこなすという主体性、主体化だ。

(引用)
「明晰さにまけないためにはどうすればいいんだい?」
 「明晰さを無視して、見るためにだけそれを使い、じっと待って新しいステップに入るまえに注意深く考える。とくに自分の明晰さはほとんどまちがいだと思わねばならん。そうすれば、自分の明晰さが目の前の一点にしかすぎないことを理解するときがくる。」(引用終わり)


★第III象限 「統禦された愚」 - 意志を意志する

第III象限は『「世界」への内在(此岸化)』と『<世界>からの超越(主体化)』に囲まれた象限である。金魚が自分の入れられている金魚鉢の中での生き方に徹することで、それにより金魚鉢が置かれている部屋をも超越し包含する、ということだと言えようか。

 この本で「意志」と訳されている言葉をドン・ファンがインディオ語でどのように表現したのか分からないが、日本語に転換されたドン・ファンの「意志」は、日本人が理解する「意志」とは異なるものである。

 ドン・ファンは、意志とは「人間と世界を結ぶ真のきずな」であるという。カスタネダが、ドン・ファンの孫がオートバイを買うと決めたことが意志か聞くと「それは意志とは正反対のもの、つまり耽溺にすぎない」と言う。では、勇気のようなものかと聞くと「勇気は常識的なことを大胆にやってのける。けれども、意志は、われわれの常識そのものに挑戦するのだ」と答えている。さらにドン・ファンは言う。「たとえば、おまえの意志はもうおまえに少しずつ裂け目をつくっているんだぞ。」

 私が思うに、ドン・ファンの言う意志とは、認識(我見)が起きる以前の状態を指しているのではあるまいか。人の思考・判断が介在して左右できるものではなく、さらにその下層にあって根幹をなしているものを指しているからだ。認識以前はどうだったのか、それがドン・ファンが問うている「意志」なのだろう。

 そう、思ったけれど、どうもそうではないようだ。

 わけがわからなくなるのはこの記述の後に続くドン・ファンの意志に関する盾理論だ。ドン・ファンは言う。「戦士は自分の世界をつくる項目を選び出すといったのだ。注意深くな。なぜなら自分の選ぶ項目のひとつひとつが、自分で使おうとしとる力の攻撃から身を守る盾なんだからな」。

 そうかもしれないが、これ、さっきの「意志」とどうつながるのか皆目分からない。さっきの意志の説明とは真逆と言っていいほど違う。真木はカスタネダの著作4冊から抜粋してこの本の基礎としているが、その過程で、全然違う文脈での話をここに入れてしまったということはないのだろうか。

真木が言うところの「意志を意志する」とは何か。真木によれば「意志を意志する」とは愚を統禦すること、すなわち解脱と愛着をコントロールすることだと言う。それは自己の欲求の主体であることだと言う。

 つまり真木は「意志」の意味について盾理論のほうを採用しているということになる。私が(あくまで私が)ドン・ファンの(盾理論が紹介される前のパラグラフでの)言葉から読み取ったところでは彼が言う意志は認識以前のものである。よって、コントロールできるようなものではない。人間の知的労作とは無関係に、既に存在するものであり、それをどうこういじることは不可能である。

どう解釈すべきか、私には分からない。


★第IV象限 「心のある道」 - <意味への疎外>からの解放

第IV象限は『「世界」への内在(此岸化)』と『<世界>への内在(融即化)』に囲まれた象限である。金魚が自分の入れられている金魚鉢の中での生き方に徹することで、部屋の一部になりきって自分の金魚鉢以外のことも区別なく受け入れる、ということだと言えようか。

 しつこいようだが第IV象限が最終形態、最重要象限ということではない。4つの象限のうちの1つだ。

  私は、スピリチュアルとか占いとかの内容は信じない。しかし、スピリチュアルや占いの人から言われた言葉で救われる人は確かに存在するだろうと思う。下記のドン・ファンの言葉はどうだろうか。単なるなぐさめなのか、事実なのか。事実だとして、なぜ事実だと言えるのか。事実であることを証する道はあるのか?

 「その男は自分の一生で見ることもなくただ年をとってきただけだ。」
 「今彼はこれまでにもまして自分を憐れんでおるだろう。彼は勝利にひきつづく敗北ばかりをみてきたから、四十年をむだにしたと感じておるんだ。勝利することも敗北することも同じだってことが彼にはけっしてわかるまいよ。」
 「おまえの友人にとっては努力が敗北に終わったからそれには価値がないのだろう。わしにとっては勝利もないし敗北もない。空虚さもない。すべてのものがあふれんばかりに充実しておる。」


★結 根を持つこと翼を持つこと

 息子がなぜ私にこの本を読んでみろと言ったのか、分かったような気がする。禅を少し齧った私がこの本をどう捉えるか、興味があったんじゃないかな。

 私の結論。この本の内容は禅だ。インディオの呪術師ドン・ファンが言っていることは禅の師匠たちの言っていることと変わらない。日本的な塩・醤油味付けかインディオの麻薬的薬草味付けかの違いだけだ。禅が求めているのは考え方ではない。事実だ。そしてこの事実というのが人間というものの真実のことであるならば(真実のことであるのだから)、どこでどういう生き方をしている人であろうと、行き着くところが同じになるのは当然であろう。

 ちなみに、筆者の真木悠介は見田宗介氏のペンネームである。見田宗介氏は1937年生まれ。社会学、比較社会学、文化社会学を専門とした東大名誉教授。

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