宗教アニメとしての山田尚子『きみの色』――敬虔に生きるために――
問題の所在
山田尚子監督の新作である『きみの色』が2024年8月30日に公開された。
山田尚子監督といえば元々は京都アニメーションというスタジオでアニメ制作に携わっていたが、現在はサイエンスSARUに活動の拠点を移している。
かつて幸福の科学の布教アニメの制作に関わり、人権啓発アニメを制作してきた経歴を有する京都アニメーション作品といえば、宗教を隠れたモチーフとして扱いながら、アニメ作品を制作していることは、論者がつねづね強調しているところである。そして、山田尚子監督もアニメ作品に神様や宗教といったモチーフを巧妙にしのばせてきた。
例えば、『けいおん』では「ふわふわ時間(タイム)」という楽曲が使用されているが以下のような意味深長な歌詞がある。
「ふわふわ時間(タイム)」という楽曲も実は「カミサマ」に願いを込めた歌であるのだ。
さらに『たまこまーけっと』においても神様を山田尚子監督は巧妙に配置している。『たまこまーけっと』の10話である「あの子のバトンに花が咲く」において、常盤みどりが商店街の頭上に吊るされた巨大な魚にダンスのアイディアが出てくるように、柏手を打ちながら祈るシーンがあるのだ。また、『たまこまーけっと』4話の「小さな恋、咲いちゃった」の冒頭では、たまこの妹である北白川あんこは祭りの装束に身を包むシーンが存在するし、しゃべる鳥であるデラが神輿の上で飾られる挿話も存在するのだ。このように『たまこまーけっと』においても神様や宗教が描き込まれてきた。
もっといえば、山田尚子監督の映画作品である、『映画 聲の形』においてもマンションから投身自殺を試みる西宮硝子の腕をつかむ石田将也は、「神様・・・どうか、もうひと振り俺に力を下さい。もう嫌なことから逃げたりしません。明日から…みんなの顔をちゃんと見ます。明日からみんなの声もちゃんと聞きます。明日からちゃんとするから。」という台詞を口にしている。『映画 聲の形』においても神様に懺悔するシーンは存在するのである。このように考えたとき『映画 聲の形』とは神様に懺悔した石田将也が西宮硝子の力添えを得ながら生きなおす物語として捉えることができる。
また、『リズと青い鳥』においても、終盤、傘木希美にフルートの才能が無いことが判明すると、リズと傘木希美の声が重なりながら、「ああ、神様どうして私にかごの開け方を教えたのですか。」という神に対する呪詛に似た言葉を投げかけるシーンが存在する。『リズと青い鳥』は傘木希美が神様への恨みを抱きながら、それでも前向きに勉強や部活動に取り組んでいく物語として捉えることができるのだ。
このように京都アニメーションおよび山田尚子監督は、アニメ作品の中に神様や宗教を周到に表象してきたのだ。
山田尚子監督は京都アニメーションを離れた後に、『平家物語』というアニメ作品を発表しているが、『平家物語』においても宗教、とりわけ仏教を丁寧に描いている。『平家物語』の最終話である11話の「諸行無常」の結末において、後白河法皇は平徳子に対して「どうすれば、苦しみを超えることができるのかのう。」と尋ねる。それに対して徳子は「祈りを。わたくしにも、まだ忘れられぬ思いがございます。ですので、ただ、ただこうして皆を、愛する者を思い、そのご冥福を祈っているのでございます。」と答える。そして後白河法皇は仏像の前にひれ伏し、思わず手を合わせる。この結末においても、祈りを捧げることが平徳子の救いになると示唆されているのだ。
さて、山田尚子監督の最新作である『きみの色』は長崎のミッションスクールが舞台に設定されている。そのことについて、『きみの色』のパンフレットのなかで山田尚子監督は次のような質問に以下のように答えている。
ここで山田尚子は〈信じることができる心〉を描きたかったと告白しつつ、日暮トツ子が大切にキリスト教の信仰を守っていることと、人を気遣うことができることは無関係ではないと語っている。
以上のように、山田尚子作品と宗教という主題は切っても切り離せない。そして『きみの色』においても宗教や信仰が重要なモチーフとなっていることが分かる。そこで本稿では、『きみの色』における宗教の表象という切り口で、作品を分析することを試みる。
信仰を静かに守る影平ルイ
まず影平ルイにおける信仰をみていこう。
影平ルイは古本屋「しろねこ堂」で出会って以来、バンドを結成し、日暮トツ子と作永きみと交流を深めていく。影平ルイと日暮トツ子と作永きみの三人が週末に集まってバンドを練習する場所は、元々は古い教会であり、影平ルイはその古い教会の掃除を担当していることが語られる。さらに、修学旅行の時期に、日暮トツ子が作永きみを寄宿舎に手引きした罪によって、反省文と奉仕活動を行わなければいけなくなった日暮トツ子と作永きみはバンド活動に参加できないことになる。そんな謹慎中の二人に無理やり介入することなく古い教会で静かに音楽の練習をコツコツと行う人物として描かれている。
影平ルイと日暮トツ子と作永きみの三人の距離感について山田尚子は『きみの色』のパンフレットにおいて次のような質問に対して以下のように答えている。
影平ルイは謹慎中の日暮トツ子と作永きみのふたりのことに気に掛けながらも、古い教会で音楽を独りで練習しながら自足している人物なのである。それは影平ルイなりの日常に寄り添った信仰のありようだろう。
信仰から離れる作永きみ
映画の序盤で作永きみが高校を退学し、その事実に日暮トツ子がショックを受ける。だが作永きみがミッションスクールを退学した本当の理由は映画の終盤まで明かされない。映画の終盤で雪によって船が欠航し、離島に取り残された日暮トツ子と作永きみと影平ルイは結局「合宿」と称するものを実施する。その「合宿」の夜に作永きみは高校を退学した理由を語るのだが、その理由は祖母や周囲が期待するような善良な人間ではない自分に嫌気が差し、かつて聖歌隊に加わっていたが、聖歌隊も辞めて高校を中退することになったと語る。作永きみは宗教の信仰に一度は加わったものの、その信仰から離脱した人間として描かれているのだ。さらに作永きみは祖母にも高校を中退したことを言い出すことができないでいる。作永きみというキャラクターがどこか影を抱えている静かな女性なのは、祖母に高校を中退したことを言い出せないのと同時に、信仰を捨てたことの後ろめたさを感じているからなのだ。
修学旅行の時期に作永きみは日暮トツ子の手引きによってミッションスクールの寄宿舎に侵入し、それが露見するとミッションスクールの良き指導者であるシスター日吉子の進言によって、作永きみにもきちんと償う機会が用意される。興味深いことに、この映画は一度信仰を捨てたはずの作永きみは再び信仰の機会に接近する物語なのだ。さらには、退学したはずの作永きみは聖堂で音楽を演奏することなる。(そのバンドも立派な「聖歌隊」だとシスター日吉子に日暮トツ子は言われる点は忘れてはいけないだろう。)そして大学に進学する影平ルイを作永きみが「頑張れ!」と大声で応援することまでできるようになるまでの物語として捉えることができる。
つまり、一度信仰を捨てたはずの作永きみは、度量の広い宗教的指導者の助けを借りつつ、バンドを結成することによって再び「聖歌隊」に加わり、他者を応援することができるようになる、すなわち作永きみ自身も自分の人生を前向きに生きることができるようにまでの物語なのだ。
神様への呪詛を投げつけつつも吹奏楽部や受験勉強に頑張る『リズと青い鳥』における傘木希美と、信仰を捨てつつも再び「聖歌隊」に加わり自分の人生を前向きに生きることができる作永きみは、類型的で、非常に似ていることは言い添えておく
信仰をさらに深化させる日暮トツ子
先ほど、作永きみは高校を中退し、信仰を捨てた後に再び信仰に接する機会に恵まれていく過程をたどることを述べた。一方、日暮トツ子は女子高生なりに信仰を疎かにしない人物として描かれているが、日暮トツ子は作永きみや影平ルイとの交流を深める過程で、信仰を裏切らなければならない境遇に置かれてしまう。
特に強調しておきたいのは、信仰を捨てた作永きみと信仰を疎かにしない日暮トツ子が交流を深める様子の緊張感で、この映画の序盤から中盤は構成されていることだ。
例えば、男性との交際が禁止されているにもかかわらず、一緒に影平ルイとバンドを結成してしまうし、すでに退学した作永きみを寄宿舎に手引きしてしまう。この映画に対する批判として、物語に起伏がなく退屈だといった評価を時折見かける。だが繰り返すようだが、信仰を捨てた作永きみと信仰を疎かにしない日暮トツ子の対照性の緊張感で映画は構成されているのだ。この緊張関係を見抜けなければ、この映画の真価を味わったことにならないだろう。
さて、この映画が興味深いのは、日暮トツ子は一見すると信仰を裏切らなければならない状況に迫られるが、度量の広い宗教指導者や宗教によって日暮トツ子の罪は許されるのだ。さらに日暮トツ子は常に自身の罪を反省するし、信仰心を失うことはない。
映画に即していえば、日暮トツ子はかつてバレエダンスが苦手であり、自分が何色かわからなかったが、「聖バレンタイン祭」で「聖歌隊」であるバンドで演奏することによって、バレエダンスが苦手であった自分を受け入れることができるし、日暮トツ子自身が何色かわかるのである。いわば日暮トツ子は宗教による「奇蹟」を味わうわけである。
この映画はすなわち、「水金地火木土天アーメン」などといった表現に代表されるような山田尚子特有の言葉遊びによって、日暮トツ子は日常に寄り添った信仰を常に深化させながら、敬虔な気持ちを失わずに生きていく物語なのだ。
『きみの色』論はこのあたりで論を閉じたいと思う。偉大なるアニメ映画監督にして、偉大なる宗教家の山田尚子に最大の敬意を込めて。