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三陸花火大会が良すぎて痛風になった話
※本文には「痛風」の話は一切ありません。痛く刺さるほどよかったという例えです。センスが迷子ですが、ものは例えです。はい。
花火は今までの自分にとって手段とか口実だったなぁと思って。部活の友達と駄弁るための、河川敷でポテチをあてに安いお酒を飲むための口実であり、「花火行こう」の花火は自分にとって主役じゃなかった。
今回もそうで、陸前高田に行くこと、友達と出かけることが大事だった。正直な話、とても失礼だけれど、打ち上げが始まってすぐはお腹を満たすほうが優先だった。もちろん、スタートから華やかなショーにすげぇーって思ってた。美味しく焼きそばやら蒸し牡蠣やらをいただいたあとは、絶え間なく上がる花火に圧倒されつつ、スマホでうまく思い出として残そうとしてた。
ただ今回は自分にとって「いつもの花火」とは違うところがあった。一つ一つ打ち上げられる前に、誰の作品で、こんな名前で、ここを見てほしくて、こういう思いをこめたという紹介があった。必ずしも全て言葉にして言えばいいものでもないのかもしれない。けれど、”ちゃんと”花火を見たことがない自分にとってすごく新鮮だった。
そして「次が最後の章です」のアナウンスがあったとき、ふと自分の中で「あ、終わるのか」と感じて。折角だし、悔いなくまっすぐ見ようと思って。スマホをおいて
そうやって見ていたら特別感じるものがあって。この1発、本当に5秒とかの作品のために花火師の方はどれほどの時間と力を注いでいたのかなと。そのたった一瞬で、見てる人を少しでも楽しませようとしていて。それは実際すごく綺麗で。消える最後のひとかけらの火を見届けてどれほどほっとしてるのかなとか想像して。しかもこの花火大会には今年打ち上げることのできなかった作品がここでならと全国から集まっていて。そういう思いがどれくらい詰まっていて、ああやって本当に美しい形になっているのかなとか。
それからその思いが乗った花火たちがこの陸前高田で打ち上げられていることにもすごく大事な意味を感じて。上から工事の様子を見ていたところに車を停めて。目の前に米沢商会の建物を見て。震災後の町しか知らないし、なんなら1年ぽっきりしか触れてない、よそ者もよそ者だけれど、駐車場で誘導棒を振る人、屋台で海飯美味しいですよーって言う人、あったかいコーヒーと一緒に店のポストカードくれた人、入場口でQRチケット確認する人、本当にたくさんの人がこの大会で陸前高田を盛り上げようとしていて、その思いも全部あの花火に乗ってるのかなと考えるとぐっとこみあげてくるものがあった。
花火を見て、こんなになるとは、びっくりした。でも1個1個最後消えるまで見届けようとしてたら、コンタクトちょっと浮いてきてた。あそこでRachel PlattenのFight Songはずるいと思うけどな。
今回見て花火の概念が自分の中ではっきりと変わった。
綺麗な花が咲くには、“根っこ”が必要で、それはこの一つ一つを咲かせるために関わってるすべての人の思いとか、行動とかなのかなと思った。特にこのコロナ禍だとか、震災10年に向けてだとか、2020年の三陸花火大会は特別現れていたのかなと感じる。
自分も、ものすごく曲りなりにも”被災地”とか”復興”とか(あまり好きな言葉ではないけれど)に関わる1人間として、根っこの部分で何かできることをできるかぎりやろうと改めて思った。
長々と何が言いたいかというと、本当にいい花火大会でした、誘ってくれてありがとうということです。