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読書メモ:奇跡のリンゴ~前に進む勇氣をもらえる本~

日本の心を照らします🌤
鉄舟です。

無農薬無化学肥料で農業できる力を、つけたいと思って、自然農に関わる代表的な本を読み始めています。

「奇跡のリンゴ」無農薬でリンゴの栽培を可能にした木村秋則さんを取材し、一冊にまとめた本。

木村さんが、大変な苦労をして、リンゴの無農薬無肥料の栽培を可能にしたことが知っていたが、その苦労の度合いが想像の域をはるかに超えていて、終盤でリンゴが実ったシーンになると泣きそうになりました。

そして、木村さんがこの偉業を成し遂げた裏には、たくさんのサポートがあったこと、特にご家族の応援がなければあり得なかったことがよくわかりました。

この本を読んだ後、内側からエネルギーが湧いてくるような感覚になりました。

あらゆる人に勇氣を与える本だと、確信します。

そんな「奇跡のリンゴ」を、内容を紹介しながら感想文書いていきます。

リンゴの自然栽培が困難な理由

そもそも、リンゴを無農薬無肥料で栽培することがなぜ困難なのかを理解するために、リンゴの歴史を紐解く必要があります。

リンゴ自体は、4000年前の遺跡から発見されるほど、昔からなじみのあった木の実でした。

しかし、そのリンゴは今のような大きくて甘いリンゴではなく、小さくて酸味や渋みが強い、おいしくないものでした。

18世紀、イギリスで品種改良の手法が発見され、19世紀半ばにはアメリカで品種改良ブームが起きました。

この頃から大きくて甘い品種が作られては来るのですが、病害虫に弱いものが多く、生き残って普及される、ということが実現されませんでした。

そして19世紀終盤、農薬が発明され、病害虫の被害を抑えられるようになり、今のような甘くておいしいリンゴが普及するようになりました。

つまり、現在のリンゴは、農薬の使用を前提に存在する品種です。
加えて、原産地はコーカサス山脈(黒海-カスピ海間にある山脈)あたりとされており、決して日本の風土に適しているとも言い難い作物です。

また、明治に入って大きくて甘いリンゴが輸入されると、明治政府はリンゴの栽培を全国に奨励され、実ると飛ぶように売れ、日本中で栽培されました。

明治10~20年代にかけてです。

明治30年代に入ると、害虫の被害が一氣に広まり、明治が終わるころには青森以外の県はリンゴ栽培を放棄し、代わりに養蚕業が営まれました。

青森では気温の関係もあり、リンゴ栽培が続けられましたが、病害虫により壊滅的な被害が受け続けました。

明治44年になって初めて、農薬が日本に持ち込まれ、安定的にリンゴ栽培ができるようになりました。

つまり、完全無農薬のリンゴ栽培は、すでに明治時代の先人たちが経験し、挫折したものということです。

木村さんの挑戦は、農薬前提の品種改良であること、異国の果樹であること、さらに100年にわたる日本におけるリンゴ栽培史、これらに対する挑戦でもありました。

木村さん挑戦のきっかけ

木村さんは、もともと機械を活用した大規模農業を志向していました。
しかし、3つのきっかけになる出来事があり、完全無農薬リンゴ栽培の挑戦し始めました。

  1. トウモロコシ畑に来たタヌキの話
     木村さんは当初、リンゴ畑でなく、田んぼやトウモロコシ畑を持っていました。
     トウモロコシ畑にて、タヌキの被害を抑えようと、虎鋏を仕掛けたところ、子タヌキがかかりました。
     木村さんが虎鋏をとると、母タヌキが子タヌキの傷ついた足をなめて手当し始めました。
     木村さんは気の毒に思い、虎鋏を回収し、変わりに商品にならないトウモロコシを、畑の端に置くようにしました。
     置いたトウモロコシはきれいに食べられましたが、畑の被害はそれ以降なくなりました。
     「畑は、もともと動物の住処だった。だから畑の作物を全部人間が持っていくことが間違いだった」という考えを、木村さんは持つようになりました。

  2. 奥さんが農薬に対して過敏体質
     かつての木村さんも、リンゴに農薬をたっぷり散布して栽培していました。ただ、毎年農薬を散布すると、時には一週間も寝込んでしまうほど、奥さんの体調に影響が出ており、なんとかしなければならないと感じていました。

  3. 福岡正信著「自然農法」との出会い
     農閑期の冬、木村さんは農業の勉強のために町の図書館や書店に赴くことが日常でした。
     あるとき、書店で棚の最上段にあった本を取ろうとした際、隣にあった本を落としてしまい、買う羽目になりました。
     その本が、福岡正信さんが書いた「自然農法」で、この本が無農薬の農業を提唱し、実践例を書いていたことがきっかけで、木村さんは本氣で完全無農薬のリンゴ栽培を開始します。

木村家の苦労、変遷

完全無農薬リンゴ栽培を志した後の木村さんは、明治時代にリンゴ栽培に苦しんだ先人たちと同じ道を歩むことになります。

あらゆる病害虫により、リンゴ畑は荒れ果て、田んぼやトウモロコシ畑、車やトラクターなどの機械を売り払い、また税金も滞納してしまうほど困窮したそうです。

無農薬を志して9年間、生活はどん底へ向かっていきました。

冬に東京へ出稼ぎに行ったり、近くの町で夜中アルバイトをしたり。。。

ある夏の夜には、自殺を図って山奥に向かったそうです。

ロープを木にかけようとして、うまくかけれずに地面に転げた際、無農薬栽培への道筋を見出します。

山の中の土の状態が畑の土と全然違うこと、リンゴの木と錯覚したどんぐりの木の根が立派で、強く深く張っていたこと。

そこから、木村さんのリンゴ畑は回復に向かい、9年目にして初めて実をつけることに成功しました。

そこからも多くの苦労を経て、安定した無農薬のリンゴ栽培を完成させることができました。

本当に生活がどん底だった頃、木村さんの義父、奥さん、3人の娘さんは木村さんの味方で、支え続けました。

他にも、木村さんを支え続けた地域の方がいました。

そういった方々の支えもあり、木村さんは歴史上誰も成しえなかった、農薬を前提として品種改良されたリンゴの無農薬栽培を完成させました。

感想

本書を読み、バブルで世間が豊かな生活を送っている最中、木村さんが通った苦労や困窮の道のりの険しさに最も驚きました。

本書の表紙は、朗らかに笑う木村さんの笑顔で、苦しい雰囲氣を全く感じさせないものです。

その裏側に、数年もの間、子どもに人並みの幸せを与えられない苦痛と、やらなければならないと思いつつも結果が出ない毎日を送り続ける苦痛と、他にも周囲の厳しい目や声を受け続ける苦痛と、想像不可能な苦痛があり、今の自分では表現する言葉が見つかりませんでした。

この文章を書いていて同時に思ったことが、木村さんの挑戦は歴史に対する挑戦でもあった、ということです。

誰もできなかったリンゴの完全無農薬栽培。その歴史を覆すほどの偉業が木村さんの成し遂げたことで、偉業の代償が、上記に挙げた苦痛だったのかと思い至りました。

木村さんの苦労を知れば、自分の苦しみのちっぽけさが恥ずかしくなりました...。

いろんな辛いこと、苦しいこと、乗り越えなければならないこと、たくさんある中で、心が折れそうになることもあります。

そして、直面している課題の深刻さは、自身の経験値のみで判断しがちなのではないかと思います。

読書をして、他者の壮絶な苦労を情報として、いや、自分の体験として取り込むと、自分の課題の小ささを思い知り、前を向いたり一歩を踏み出したりする勇氣を抱けるんだと思います。

「奇跡のリンゴ」、農業のお話かと思っていたら、農業どころか人生を学べる素晴らしい本でした。

ぜひ、多くの人に読んでいただきたいと思いました。

この本に出会えて感謝です。
また、最後まで読んでくださったみなさんに感謝です。
ありがとうございました。

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