もしも《真の》男女平等が実現したら(短編小説;2500文字)
1986年から施行された男女雇用機会均等法は、確かに女性社員の待遇改善に貢献した。多くの企業で、少なくとも総合職の男女間で初任給差が解消され、昇格に際しても明らかな性差別は以前より少なくなったと聞く。
しかし、人手不足のバブル期が終わり、景気低迷の長期化と共に、再び女性の採用を実質的に控える《就職氷河期》が訪れた。女性は結婚・妊娠による退社や出産・育児休暇取得の可能性が高いために、効率を追求する企業の論理が雇用計画におけるこうした不安定要素を排除するためであろう。
「真の男女平等は、女性が出産をやめない限り来ないのかもしれない」
と言う人もあるが、このように、いわば女が男にならなくとも、男が女になる手もあるのかもしれない。そうでなくても男性用メイクアップセットが発売される御時世である。商品や技術さえ提供されれば、もっと本質的な所での《男性の女性化》による、《真の》男女平等が実現するかもしれないのだ。
応接室の前でフー、と大きな息をつき気分を落ち着かせてから、私はドアを開けた。
「あ、どうも」
「いつもお世話になっています」
取引先の服飾メーカー営業部員・原田が緩慢な動きで立ち上がり、大儀そうに頭を下げた。その横の若い女性が名刺を差し出す。
「中野と申します。よろしくお願いします」
「よろしく」
彼女に名刺を渡すと、私の視線は椅子に腰を下ろした原田に注がれた。
「だいぶ大きくなりましたね」
「ええ」彼は膨らんだ腹を撫でた。
「8か月になります」
「それはそれは。で、産休は?」
「来月の初めから取る予定です。後の仕事は、この中野に引き継ぎます」
取引を始めた頃の原田は、細身のスーツが良く似合う、精悍な営業マンだった。今はウエストが緩く開いた《マタニティー背広》に身を包んでいる。
「そのスーツ、随分売れているそうですね」
「ええ、今年のヒット商品になりそうです。ただ、名前に男女差別が残っているとフェミニズム運動団体からクレームがつきましてね。《パタニティー背広》に改名を検討中だそうです」
話していると急に胸がむかついてきた。また始まったのだ。
「す、すみません、ちょっと失礼」
胃の中から込み上げてくるものを押さえながら私は応接を飛び出し、男子トイレに向かった。
バイオテック・ショート・サーキット(BSC)社が、極秘裏に研究を進めていた男性用人工子宮の開発に成功したのは今年の初めである。合成高分子製の子宮内壁に体外受精卵を着床させ、《母親となる》男性の腹腔に埋め込むと共に卵胞ホルモンや黄体ホルモンを投与する。そして、37, 8週後に帝王切開によって《出産》させる仕組みだった。
このニュースは、政府とフェミニズム団体の双方から大きな拍手をもって迎えられた。厚労省は異例の速さでこの技術を認可した。体外受精を《治療》としてのみ認めていた産婦人科学会も、人工子宮に関しては「配偶者が不妊である事」という条件を撤廃した。
厚労省は、この技術によって家庭生活における男女の負担較差が縮小し、女性雇用が促進されると期待する、とコメントした。しかし、本当に期待したのは少子化傾向への歯止めだった。合計特殊出生率は大きく落ち込み、エンゼルプランのような働く女性支援制度も財政的裏付けに乏しく、将来の若年労働人口の減少は、日本経済にとって深刻な問題になっていたのである。
「どうも、失礼しました」
応接に戻り一礼すると、原田は腹を迫り出したまま言った。
「おめでたのようですね?」
「ああ、見破られましたか」
悪阻が始まったばかりの私は頭を掻いた。
「いいですよう、妊娠って」
「え?」
私は眼を細めた原田の顔を見た。中野嬢も気味悪そうに同僚の顔を窺った。
「赤ちゃんがね、最近頻繁におなかを蹴るんです。いいですよう」
「はあ」
「母親としての喜び、っていうんですか、実感するんです」
「母親じゃなくて、父親でしょ」
中野が不愉快そうに訂正した。
「原田さんのお宅は確か、ひとり」
「ええ、息子がいます。もうひとり欲しい、って女房に言ったら、じゃ、今度はあなたが産む番よ、って言われちゃって……」
「……なるほど」
私の職場でも妊娠した男が増えた。大抵は原田のように2人目、3人目の妊娠を妻に拒否された連中だ。確かに人工子宮には少子化を押し止める効果がありそうだ。
女性の雇用状況も改善された。今後は産休を取る男性社員が続出するため、人手不足が予見されるからだ。目の前にいる中野も、その関連で新規採用されたクチであろう。
「谷口さんのお宅は何人目ですか?」
「その、……1人目なんです」
「は? ああ、代理出産ですか」
妻の不妊が原因だと原田は誤解したらしかったが、私は黙っていた。出産を望まない妻との間では、結婚以来、子作りの事で口論が絶えなかった。
しかも、システム・エンジニアである彼女は最近大きなプロジェクトを受注したばかりであり、仕事に乗っていた。どうしても子供が欲しかった私は、人工子宮ブームの中、ついに妊娠を決意したのだった。
「出産はできても、母乳を出せなくて残念ね」
中野が2人の《妊夫》を見ながら意地悪そうに言った。
「そうでもないのさ」
原田が笑いながら《マタニティー背広》の胸をはだけた。
「ほら、新発売の《授乳用模擬乳房》です。慣れるために着けてるんですよ」
そこには確かに、2つの膨らみが巨大なブラジャーに包まれていた。黒い胸毛がはみ出しているのがご愛敬である。
「哺乳壜の代わりにこのオッパイにミルクを入れて、胸に抱いた赤ちゃんに吸わせるんです」原田は幸福そうだった。
「初めは産休だけ取って育児は妻に任せるつもりだったんですけど、このオッパイを手に入れて以来、考えが変わりました。引き続き育児休暇も取ろうと思っています」
「うーむ、なるほど」
私は唸った。これまで経験した事のない、新しい人生のページが始まりそうだ。
「さっそく、買って試してみます」
*この短編は、30年近く前に某全国紙夕刊に掲載した創作を、ほんの少しだけアレンジしたものです。
年月が経過しても、問題の本質は変わりませんね。いよいよ、BSC社が本気にならないと……。
*表題のイラストは、ありなか本舗さんの作品で、下記のフリーイラスト素材から引用させていただきました。