熊本のヒーロー・加藤清正
3月半ば、所用で熊本に行きました。
名古屋―熊本便は1日3往復もあるけれど、FDA機はほぼ満席で、TSMCプラント建設に端を発したビジネス客需要が旺盛なことをうかがわせる。
その話ではなく ──
宿泊したホテルの近くに熊本市役所と熊本城があるので、少し辺りを歩いてみた。
市役所前に何か銅像めいたオブジェがある。
これは、特徴的な『長烏帽子兜』を被った加藤清正の彫刻だということで、その視線の先に熊本城を見据えているとか。
佐々成政の失政後に、秀吉から肥後国北半分を治めるよう命じられた加藤清正について、築城などの功績は私も知っていた。
「それにしても、市役所前に鎮座しているとは!」
と驚きつつ、熊本城に足を伸ばしてみると……
天守閣の中にも、清正公さんの功績がいっぱい記述されている。
築城はもちろんのこと、熊本の街づくりや治水事業などの功績が大きく、しかも、部下や領民に対して気遣いのある領主だったようだ。
熊本城ミュージアムの受付の女性と宿泊したホテルの係員に同じ質問、
「加藤清正さんって、熊本で尊敬されてるんだね?」
と尋ねてみたら、
「そりゃあもう、人気があります!」
「でもさ、すぐに藩主は細川家に替わって、明治維新までずっとそのままだったんだよね。細川の殿様の方が慕われてるんじゃないの?」
「とーんでもない! 段違いです! 熊本では清正公さんが大人気です!」
どちらも、力説ぶりが迫力ありましたね。
もう夕刻近かったので、実物にはお目にかかれないけれど、熊本城の『おもてなし武将隊』ポスターがここかしこに貼ってありました:
名古屋城の『おもてなし武将隊』ではセンターが信長サンだったけれど(清正サンも重要メンバー)、ここは清正公さんが圧倒的です。
その他の武将隊メンバー(細川忠興、小西行長、島津義弘、大村喜前、八十姫、南条元清、庄林隼人)とは扱いがまったく違います! 別格です!
(しかも、八十姫はセイショコさんの娘サン!)
ナショナリズム的感慨はできるだけ抱かないように、と心してはいるものの、尾張・中村(現在の名古屋市中村区)出身の清正サンがこれほどまでに尊敬されているのはちょっとうれしい ── 一方で、比良(現在の名古屋市西区)出身の佐々成政はこの地で完全ボイコットに遭ったけれど。
中村から太閤秀吉が出たため、彼の縁者だった、豊臣秀長(大和・紀伊・和泉)、加藤清正(肥後熊本藩)と小さな村から2人の大名が出た(前田利家、福島正則、蜂須賀正勝、浅野長政、池田輝政も尾張出身だが、別の地区)。
加藤清正の父・加藤清忠は刀鍛冶だったという ── 即ち、エンジニア。
エンジニアの重要な特性として『段取りに従い、正確に工程を進める』ことが挙げられる。
築城の名手として謳われる加藤清正のルーツはこんなところにあるのかも、なんてことも思うのであーる。
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