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半田でカブトビール【1/3】まずは江戸のにぎり寿司ブームを支えた町の歴史など

高校時代の友人たちと半田に遠足しました。

知多半島には古くから栄えた大きな町として、東(三河湾側)に半田、西(伊勢湾側)に常滑があります。
半田は良港を持ち、酒と酢の醸造業とその輸送基地として栄え、一方の常滑は古くから窯業が発達し『六古窯』に数えられます(他は、瀬戸、越前、信楽、丹波立杭、備前)。

半田の位置(by Google Maps);
対岸・三河の碧南との間に衣浦海底トンネル
知多半島の西岸には土管で知られる常滑

ちなみに、この図で知多半島を人間の右腕とすると、脇の下に細長い入り江があり、ここを上(北)にさかのぼっていくと、大府(尾張)と刈谷(三河)の間を流れる川となる。
この川は名古屋近郊になると幅は狭く、簡単に越えられる小川になりますが、その名を『境川』と呼ばれ、文化の大きく異なる尾張・三河を分ける、なぜか重要河川なのです。

昨年の大河ドラマ『どうする家康』をご覧になった方は、いわゆる尾張三河両国間に『清須同盟』を締結することになった松潤〈臆病〉家康が、相当な勇気を奮って岡田〈魔王〉信長にこう切り出した場面を憶えておられるでしょうか。
「どこをくにざかいとするか、決めなくては……」
信長はあまり関心なさそうに、
「どこがいい?」
かなりビビりながら家康、
「それは……やはり……境川…か…と…」
信長あっさり、
「それでよかろう」
家康、安堵……。

小さな川なんですけど……

知多半島は古代より、西の伊勢と東国を結ぶ『海の道』の中継地でした。
一方で、知多半島には高い山がなく、昭和30年代に木曽川からはるばる導水する愛知用水が建設されるまでは慢性的な水不足に悩まされていました。
そのため、この地で水田耕作は難しく、海運業が発達する。

海運業で必要なものに物資を入れる容器があります。奥州藤原氏の遺跡発掘から常滑焼の甕が出てくるのをはじめ、北は津軽半島、南は鹿児島まで、常滑焼が出土するそうです。
即ち、知多半島は古代、窯業を中心とする一大工業地帯だったようです。

集合場所の名鉄知多半田駅には、1時間前に着きました。

駅前の案内図を見ると、半田にとって新美南吉が《BIG!》な存在であることがわかります。

案内図の『現在地』から下(東)の方に歩いて行きますと……

粋な黒塀が延々と続く、広大なお屋敷がありました

これは、ミツカンの創業家である中埜家の大豪邸でした。

1万坪近い敷地だそうで、掃除がたいへんそうだな……と

さらにJR武豊線を越えて東に進むと、ミツカン・ホールディングスの本社があります。

本社玄関前のモニュメントに書かれた創業の歴史

江戸時代、半田では酒造りが盛んでした。初代中埜又左衛門が、米から酢を作るよりも酒粕から作る方が安価であることに着目し、文化元年(1804年)に粕酢製造業を開始。
半田運河沿いに酢の醸造蔵が並んでいて、酢は運河から尾州廻船によって江戸に運ばれ、江戸の町で庶民の間ににぎり寿司が普及する要因となったそうです。
ミツカンに変える(1998年)まで、社名は『中埜酢店』でしたね。
売り上げ1千億円を超える巨大企業ですが、今も非上場の同族経営を維持しています。

運河から江戸に向けて酢を出荷していました。
左側が『ミツカンミュージアム』
酢の醸造工程などを見学できるのですが、この時は閉館中でした

さて、この『中埜酢店』が、カブトビール製造の母体となるのでした……。

【2/3】につづく…

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