心揺さぶられた映画たち ~映画にコスパを求めるな~
どうも僕です。
僕はわりと映画を数多く観るほうで、
映画を年間、100本ほど観ます。
「ファスト映画」っていうのがこの前逮捕者が出て話題になってました。
映画を短縮して要約するコンテンツを作る人。
そしてそれを見る人。
見る人のニーズって言うのは、
「映画を観た本数を稼ぐ」っていうことだと思うのだけど、
正直、分かるような気がするけど、
まったく分かりません笑。
分からんのかい!
もう、いろんなところで語り尽くされてるので、
あえてこんなことを僕が言っても、、、
とは思うのだけど、
「ファスト映画ですべての映画をコンプリート」って、
「大使館が出してる観光アピールビデオクリップを全部見たら、
世界のすべての国に行ったことね」
って言ってるのとさほど変わらないと思うのですよね。
そういう「遊び」としてハマれば面白いかもしれないけれど、
映画というものの本質を理解していないことを、
露呈してしまっている行為というか。
「速読」も僕はまったく興味がなくて、
それもほぼ同じ理由です。
速読でスキャンするように1冊を10分で読む。
1日に10冊、10日に100冊読める!!
って、いったい何なんだろう?
と思う。
これも大使館のビデオクリップと同じだと思う。
読書や映画は数に還元されるものではない。
なぜならそれは「体験」であり、
一回性のもので、
読書ならば難解な箇所を何度も読み直したり、
映画ならば「何も起こらない10分間」の、
この「冗長性」に、
監督はいったいどんな意味を込めたのか?
みたいなことを考えながら、
監督と対話する経験こそが、
映画を観るという体験だったりする。
「体験」を「数字」に還元してはならない。
金勘定ばかりが幅を効かせる世の中で、
若い人々がそういった「コスパ志向」に引き寄せられる、
というのは理解できるのだけど、
それは人生を恐ろしく骨粗鬆症にしてしまうよ、
と僕は老婆心ながら思うのだ。
子育ては数に還元できない。
それは体験だから。
10人育てた人が、
3人育てた人より偉い、
なんてことはまったくない。
恋愛は数に還元できない。
恋愛でコスパを求めるなら、
デートやメールのやりとりや会話は面倒だから、
「とりあえずセックスさえできれば良い」
ということになる。
相手がまともな人間ならば激怒するだろう。
なぜならそれは「恋愛」が侮辱されたことになるから。
同じように読書や映画が数に還元され、
コスパを求められることに、
クリエイターの人たちが怒っているのは、
多分「利益が奪われる」という問題だけではない。
むしろそれは付随的なことで、
怒りの本質は「作品」が侮辱されたことになることにある。
「とりあえずその映画の要点だけ早よ」って監督に言ったり、
「とりあえずその小説のパンチラインだけ早よ」って作家に言ったりするのは、
「とりあえずセックスだけ早よ」って女性に言うのと同じくらい、
相手をリスペクトしていない行為なのだ。
恥ずべきである、
と僕は思う。
とても話がそれた。
何の話をしようと思っていたかというと、
僕はファスト映画ではない方法で、
年間100本ほど映画を観る、という話。
Amazonプライムに加入したのはやはり大きくて、
移動中とか、ジムで走りながらとか、
隙間時間を使って映画を観るようになってから、
それぐらい見るようになった。
「これは」という映画は、
Amazonでストリーミングのレンタルをして課金し、
ちゃんとモニターに映して、
椅子に座ってじっくり見る。
さらに「これは」という映画は、
映画館に行って、お金を払って見る。
そんなふうに僕は映画を観るわけだけど、
今年、僕の心を揺さぶった映画を、
3本紹介したい、と思ったのがことの始まり。
ちなみに今のところまでで、
今年見た映画は65本です。
(繰り返すが数に意味はないのだけど)
●佐々木、イン・マイマイン
これは良かった。
「誰の心の中にも佐々木がいる」
っていう話。
中学・高校時代に、
「あー、あんなやついたな」
っていう同級生が、誰の心にもいる。
もう10年や20年、思い出してなかったけど、
あのとき、あいつに、あんなこと言われたな。
っていう台詞がある。
あのとき、あいつと、あそこであんなことしたな、
っていう、網膜に焼き付いたシーンがある。
その台詞やシーンを思い出すと、
ジーンと心が温かくなり、
このクソみたいな社会で、
それでも前を向いて生きていこうかな、
とその日が終わるまで思える。
そんな「心の中の佐々木」を、
召喚してくれる作品。
もう、心を射抜かれましたよ、僕は。
●バクラウ
これは凄かった。
僕はコーエン兄弟の映画が好きだ。
『ファーゴ』は何度見ても面白いし、
『ノーカントリー』は、
「好きなアメリカ映画ベスト10」に入っている。
あの不穏な感じ、不条理な感じ。
死と自分の間に、
一枚の頼りないベニヤ板しかない、
という感じが凄く好きだ。
北野武の映画もそうなのだけど、
「タナトスの吐息」を首筋に感じる映画というのは、
ホラー映画ではない。
『バイオハザード』ではない。
あそこに「タナトスの吐息」はない。
あそこにあるのは下品なケチャップぶっかけ流血と、
「ベロベロバーのホラー」である。
(それはそれで、そういう気分のときは楽しいのだけれど)
現実の世界に、現実の死が、
現実と同じぐらい理由もなく訪れる、
そういうリアルな描写のある映画のほうが、
よっぽど死を感じられる。
そんで、ブラジルの映画『バクラウ』は、
「南米のコーエン兄弟」って感じで、
本当に度肝を抜かれた。
世界がもう20世紀ではないことを、
こういう形で見せつけられると、
自分がアップデートされる。
マジで。
あぁ、僕たちは、
確かに、ポストモダンの世界に住んでいる。
ということが、言葉を飛び越えた実感として、
この映画を観ると五臓六腑に染み込んでくる。
そんな映画だ。
心に焼き付いて離れない。
●すばらしき世界
これは映画館で観た。
もう、大好きな映画だ。
この映画は現代の「救済論」だ。
キリスト教的ですらある。
サリンジャーは『フラニーとズーイー』のなかで、
「キリストは太ったおばちゃんなんだ!」
と書いた。
この映画を観ると分かる。
「キリストは商店街の六角精児なんだ!」
「キリストは売れない放送作家なんだ!」
「キリストはヤクザの妻なんだ!」
「キリストは少しの勇気を振り絞る区の役人なんだ!」って。
ラストシーンで、
三上の魂は、
東京の上空高く飛んでいく。
この世界が「すばらしき世界」なのだとしたら、
それは名もなき誰かの名もなき善意によって支えられている。
彼らが存在することをやめたら、
この世界は一瞬で地獄と化すだろう。
そういう映画。
僕はなぜか福本伸行のマンガ『クロサワ』の、
ラストシーンを思い出した。
心揺さぶられた。
映画は良い。
コロナ禍で僕たちの多くは今、
住んでいる場所に縛り付けられている。
でも、映画は僕たちをどこへでも連れて行ってくれる。
そして心を揺さぶってくれる。
いつの日かその蓄積が、
あの人と会った時の会話の肥やしになるかもしれない。
壮大な人生の物語の前振りになるかもしれない。
この体験は、
「ファスト映画」では得られないことだけは、
確約できる。