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師について【後編】




キリスト教とは、そもそも一連の教理のことであるとか、
志のあるひとが集う組織のことであるとか、
正しい行いを列挙した
リストのことであるというように考えないでください。
キリスト教とは、
人が歩む旅に与えられた名であると考える方が良いのです。
福音書を読むと、イエスと弟子たちは、
息を弾ませながらいつもどこかへ向かって
歩き続けていることに気がつくことでしょう。
 ――――『主の祈り』20頁 
   ウィリアム・ウィリモン/スタンリー・ハワーワス共著


▼▼▼弟子と師を結ぶ糸▼▼▼


師と弟子とでは、
同じものを求めても違う実践になることがある、
ということを【中編】に書いた。

それは「活躍する分野」や、
「生きる時代」が師と弟子で異なるからだ、と。

松下村塾の塾生は吉田松陰の「攘夷」の反対を行った。
松蔭が言っていた「外国を追い出せ」ではなく、
江戸を終わらせた弟子たちはむしろ西欧列強諸国から学び、
一気に開国の日本へと舵を切った。

ソクラテスの弟子のプラトンは、
師匠の「書き言葉は真理を堕落させる」を、
多くの書物を書き記すことで破った。

弟子は師の主張と反対のことをすることがある。
僕もまた、もしかしたら、
そういう人生を今、歩んでいるのかもしれない。

では弟子と師とは一体何なのか。
この二者は何で結ばれているのか。
完結編の今日はそれについて考えてみたい。


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