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自信をもって迷え
ニセモノの宗教に対して本当の宗教というものがあるとしたら、
それはどこかに私が迷う余地を残し、迷う力を与えるもの。
つまりは代置された「偽の自己」の中から、
「本来の自己」を呼び覚ますものであるべきではないか。
――――『なぜ人はカルトに惹かれるのか』瓜生崇 120頁
▼▼▼最初のボタンの掛け違え▼▼▼
人間は「不安」には耐えられないから、
「恐怖」をむしろ選ぶのだ。
不安には耐えられないが恐怖には耐えられる。
だから人間は不安を恐怖に「変換」する。
「●●恐怖症」というのはそうやって「生産」される。
「不安は恐怖になりたがっている」。
実存主義神学者パウル・ティリッヒはそう言った。
(『生きる勇気』パウル・ティリッヒ)
ちなみに●●恐怖症というのは、
英語で「●●フォビア」という。
高所恐怖症はアクロフォビア、
閉所恐怖症はクラウストロフォビア
昆虫恐怖症はインセクトフォビア。
そしてLGBTをヘイトする人のことをホモフォビアという。
このLGBT嫌悪/差別言説の主張者は、
「恐怖症」という病気なのだ。
医療が言うとおり性的マイノリティは病気ではない。
そうじゃなく、病気なのは「嫌悪する側」なのだ。
そういう明確な意図をもって名付けられた。
彼らはきっと不安なのだ。
そして自らの不安と直面できないから、
性的マイノリティを嫌悪するという「症状」が出ている。
大事なのは自らと向き合うことだ。
希望は「ホモフォビア」は不治の病ではなく、
「癒される」ということだ。
多くの場合「知識」によってそれは癒される。
医学的な知識、社会学の知識、神学の知識、
そして何より当事者との出会い。
僕はキリスト教徒のホモフォビアという病を癒す、
という神様からの召しを受けている。
その結果、一部の保守的なキリスト教徒は、
「陣内フォビア」という新たな病に罹患したようだ。
……という自虐でオチをつけておく。
のっけから話がそれた。
話を戻す。
今日はそれがテーマじゃない。
テーマは「不安」と「迷い」だ。
今の世界で人々は、
「不安」を直視したくない。
そして「ホモフォビア」と言われた人が、
反射的に激怒するのを見れば分かるが、
「恐怖」をも認めたくない。
そして恐怖を認められない人々は、
同時に「迷う」のが怖くなっている。
アメリカ大統領選もそうだし、
兵庫県知事選もそうだし、
去年の東京都知事選もそうだし、
昨今の芸能界のスキャンダルもそうだけれど、
人々が「正気」を失っているように見えるのは僕だけだろうか。
自分を特権的な位置において、
「人々は」と指さすのはズルいな。
僕も含め我々は「正気」を失っているのではないか。
最近僕は、
『ポスト真実の時代のメディアリテラシー』
という記事を書いた。
メディア論の泰斗、
マーシャル・マクルーハンが書いた、
現代の古典『メディア論』が、
フィルターバブルとSNSの現代に、
いかなる意味を持つかということを分厚く書いた。
これはこれでとても大事だと思うし、
自分で言うのも変だが、
けっこう大切な記事だと思うし、
あまり他で指摘されてないことを書いたと思っている。
購入して読む価値はある。いやマジで。
でも。
今日はその「前」の話をしてみたい。
今の状況ってメディアリテラシーの問題であると同時に、
我々の世代が全体として抱えている、
ある種のパラノイア(偏執狂)の問題であり、
つまり「集団としての精神疾患」のような問題でもあるのでは?
というフレーミングだ。
今の時代に生きる我々は、
「時代の病を病んでいる」のではないか。
そしてその病とは、
「自らの恐怖/不安を直視できない」という病であり、
その病の症状として我々は、
「迷うこと」を恐れているのではないか。
迷うことを恐れるから、
それがオールドメディアであろうとSNSの噂であろうと、
「何か確かと自分が信じられる情報」や、
「処罰感情を満たしてくれる物語」に、
我々はつかの間、熱狂するのではないか。
それとて長続きはしないから、
「次のカタルシスの物語」を探す。
「溜飲を下げられる次の物語」を。
人々は「ギロチン」に熱狂する。
トランプが「今日からアメリカには男と女しかいない」と言ったとき、
性的マイノリティの血しぶきが上がった。
比喩的に、ではない。
実際に自殺に追い込まれる個人も、
中長期的にはいるはずだ。
それに一部の人々は溜飲を下げた。
その中にキリスト者がいたということが、
僕は同じキリスト者としてとても恥ずかしい。
マリアン・バッディ司教に僕も連帯する。
「大統領閣下とその支持者の皆様、
あなたたちの熱狂が誰かを殺していることを、
決して忘れないでください」
ギロチンはしかし終わらない。
『バガボンド』でいう「殺し合いの螺旋」は、
かくして本格的に火蓋を切った。
アメリカでも、そして日本でも。
これを繰り返していると、
我々は結局のところ、
内田樹の言うところの「大人」になれないのではないか。
一億総「幼児」社会になっちゃうのではないか。
(『サル化する社会』内田樹)
それでは社会は豊かにならないのではないか。
じゃあ成熟するとはどういうことか?
それは「答えを得て確信をもつ」ことではない。
そうじゃない。
むしろ「確信をもって迷う」ことができるようになること。
これが大人になるということではないだろうか。
この「最初のボタンの掛け違え」が、
現代社会のの様々な症状の、
病根になっているのではないか。
そういう仮説について言葉にしてみる。
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