医療と宗教(1):霊的な健康は誰が診るべきか?
読んでくださっている皆様、下の問題を一緒に考えていただけますか?
24歳の女性。急性リンパ性白血病で入院中である。寛解導入療法を繰り返したが寛解に至らなかった.主治医との面接で「もうだめなので,早く死なせてください。私が生きる意味ってあるのでしょうか?」と語った。主治医の対応として適切なのはどれか。2つ選べ。
a.「どうしてそう思うかを教えてもらえますか」
b.「もうだめだと思ってしまうのですね」
c.「必ず治ります。私が治してみせます」
d.「そんなことおっしゃるとご家族が心配されますよ」
e.「だめなんてことないです、もっとがんばりましょう」
これは医師国家試験105H23からの改題です。医師国家試験的に、模範解答はaとbでしょうか。これはある種のお決まり的な回答で、医師は傾聴の姿勢や共感的態度をもって患者に接するべきとされています。c.は医学的に誤っている、d.は患者に対して否定的な発言、e.は抑うつ状態の患者を励ますのは禁忌といった理由で不正解です。
確かに、医師国家試験だったらそれでいいかもしれません。しかし、このa.とb.の回答は、患者さんの悩みの根源である「病に伏す自分に生きる意味を見いだせない」思いに対して答えられているのでしょうか?
では、こういった問いに答えることは医師の仕事の内だと思いますか?そもそも、『なぜ私はこの病気になってしまったのだろうか?』『生きる意味ってあるのでしょうか?』と問われた時、医師は答えられるのでしょうか?
霊的な健康を考える
WHOが提唱しようとした霊的な健康
1999年にWHO(世界保健機構)では、「健康」の定義を以下のように改める事が議論されました。
「完全な肉体的(physical)、精神的(mental)、Spiritual及び社会的(social)福祉のDynamicな状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」※1
この解釈について、日本WHO協会は、以下のように説明しています。
静的に固定した状態ではないということを示すdynamic は、健康と疾病は別個のものではなく連続したものであるという意味付けから、また、spiritualは、人間の尊厳の確保や生活の質を考えるために必要で本質的なものだという観点から、字句を付加することが提案されたのだと言われています。 ※2
結局審議入りはせず、採択はされていませんが、Spiritualつまり霊的な健康も含めて健康を定義づけようとした点で非常に画期的であり話題になりました。
Spiritualをどう定義するかが難しく、故に採択には至らなかったようです。同様に、Spiritualをどう日本語に翻訳するかも難しいです。ここでは、「霊的な」と翻訳して用いようと思います。
では、霊的な健康とは何か?を考える上で、理解がしやすくなるなと思った理論をご紹介します。それが、以下に引用した慶應義塾大学医学部客員教授を歴任された濱田秀伯先生の提唱する霊的精神力動論です。
浜田秀伯先生が提唱する霊的精神力動論
霊的精神力動論においては、人間の精神を霊spirit,魂soul,体bodyの3層構造をなしていると考えます。また、それぞれを体精神層、魂精神層、霊精神層と呼びます。
体精神層は、脳を基盤として、道具的機能と感覚が生物学的な法則に従って働いている。魂精神層は、人間に特有な時間と空間をもち、理性と感性が働く場である。最上あるいは最奥に位置する霊精神層とは、魂と体の2つの精神層を統合するとともに、「聖なるもの」からの呼びかけを聴きとり、これに向かって自己を超越する、フランクルの言う応答責任Verantwortungを果たす場である。』と定義しています。 * そして、『霊精神層が脱落すると、「聖なるもの」との結びつきが破綻し、人間は高みへ向けて自己を超越できず「生きる意味」を失う。※3
と、説明しています。つまり、非常に大雑把に言うと、人間の精神はホルモンや神経などの働きで説明出来るようなカラダにあたる部分と、理性や感性などココロの働きで説明出来る部分と、そのカラダとココロと統合する霊性(スピリチュアル)の部分(霊精神層)があるという事です。 人間というものが心身二元論では説明しきることは出来ず、カラダ、ココロ、それを統合する魂から成り立つと考えるように、人の精神も三層の構造となっていると考える理論が霊的精神力動論です。
そして、霊的な健康が損なわれた状態、つまり「生きる意味がわからない」といった状態に関しては、『「生きる意味がわからない」「すべてが虚しい」などと訴えられる特有の空虚感はアンヘドニアと呼ばれる』と説明されています。更に詳しい説明は以下に続きます。
アンヘドニアは、喜びの消失と同じではなく、単純な不安、抑うつでもない。何をしていても楽しくない、ということではなく、むしろ楽しいことも悲しいこともピンとこない、感情そのものが心に響かない離人症に近い感情の喪失感、軽い感情鈍麻、アパシーなどに類縁の質的な感情症状である。失ったものは金銭、地位、容姿などこの世の価値ではなく、目に見えない霊的価値であり、人格に関わる価値の喪失感である。※3
ここで、最初の問題に戻りましょう。この24歳の女性、急性リンパ性白血病を患った患者さんの状態はまさにアンヘドニアであるといえます。 では、アンヘドニアで問題になる「生きる意味への問い」はどう治療すればよいのでしょうか?
体精神層(カラダ)の部分への治療は、抗うつ薬などホルモンへアプローチする治療によってなされます。 魂精神層(ココロ)の部分への治療は、心理療法やカウンセリングなどによって行えます。
ここで、アンヘドニアに対して心理療法やカウンセリングでは対処出来ないのだろうか?という疑問も生じるかもしれません。
心理療法は、精神症状の治療として主に対話を用いて、患者の認知や行動に変化をもたらすものです。抑うつや妄想といった、精神症状に対して有効であり症状を軽減する効果に疑いはありません。
しかし、こういった症状は、霊精神層が侵されているために代償的に魂精神層に生じていると考えます。つまり、霊精神層が侵されている人にとっては、心理療法は根本的な治療ではなく対症療法に留まってしまうのです。
カウンセラーの手腕によっては、生きる意味への問いへの回答も出来るのかもしれませんが、あくまでそれはカウンセリングの手法というよりは、カウンセラー本人の資質によるものであるように思います。
実際を知らないので憶測になってしまい申し訳無い限りです。カウンセラーの方々が、その人の精神症状の奥には、生きる意味への問いが潜んでいるという事を意識して対話しているか、ぜひ伺ってみたいところです。
どんなにカラダとココロを治療しても、最奥の部分、「生きる意味への問い」、アンヘドニアへの治療を行わずして患者さんが真に救われる事はないのではないか?ここがポイントになります。
では、霊的な健康に対してどういうアプローチがあるか?
霊的な健康への問題に対してはスピリチュアル・ケアといったものが現状では行われています。 冒頭の問題のような終末期の患者さんに対しては、スピリチュアル・ケアが徐々に広まってきています。キリスト教系ではホスピス、仏教系では仏教ホスピスであるビハーラといったものが以前からありますが、2011年3月11日の東日本大震災をきっかけに、臨床宗教師が誕生し、宗教や宗派の枠を超えてスピリチュアル・ケアを行う潮流が生まれました。※4
特定の宗派に偏らない平等性と、認定資格としてケアの質を担保したことで、医療の場、病院の中での活動がよりスムーズに執り行えるようなりました。また、聖路加国際病院の日野原先生が創設なさった日本スピリチュアルケア学会もスピリチュアルケアの実践を進めています。(※5) 日本スピリチュアルケア学会では、「スピリチュアルケア師」を認定資格として定めています。いずれにせよ、霊的な健康は宗教者の方々の領域の問題だろうとしてお任せしているのが現状でしょう。ただ、これまで医療と宗教が解離した世界で語られ、行われていたところが、上記のような潮流によって、病院の中に宗教者やスピリチュアルカウンセラーの方々を招き入れる形で融合しつつあるのだと思います。終末期医療、緩和ケア、また患者がなくなった後の御遺族に対するグリーフケアという形では、臨床宗教師の方々の活躍が今後も広がっていく事と思います。
しかし、「生きる意味への問い」や霊的な健康に関する問題は、ターミナルに限定された事ではないのではないか?というのが、主な僕の問題提起です。
プライマリ・ケアの場や慢性疾患の患者にもスピリチュアルケアの観点が必要なのでは?
たとえば、慢性疾患の患者さん、治療法が確立していない難病になってしまった患者さん、入院を余儀なくされた学生や社会人…なにか病気を患った人ならば、誰もが「なぜ私が病気に?」というやり場のない、憤りにも近い深い悲しみを少なからず覚えるのではないでしょうか。更には大切な家族やパートナーが病に伏したならば、「どうして自分の大切な人が病に?」という思いは患者周囲の方々にも生じるものでしょう。そういった精神状態は抑うつ状態とも捉える事が出来ますが、こういう場合も「霊的な健康」が侵されていると考えられます。だとするならば、疾患がわかった段階から、スピリチュアル・ケアは始めるべきなのではないでしょうか。更に言うなれば、社会的に孤立した人々など、自身に生きる意味を見出すことが出来ないでいる人々は、たとえカラダ、ココロが健康であっても、社会的福祉の支援と共に霊的な健康に対する支援も必要な場合も少なからずある可能性があります。大下大圓先生の著書、「臨床瞑想法 心と身体がよみがえる4つのメソッド」では、緩和ケアの現場での事例だけでなく、心身のバランスがとれない思春期の患者に臨床瞑想法を行った事例や、看護師や福祉施設職員に対して臨床瞑想法を行った事例が紹介されています。※6
大下大圓先生はこうした事例を論文にまとめ発表されていますが、こうした活動の成果を伺うと、霊的な健康への支援にはかなりの潜在的な需要があるように感じます。
医師がその問に答える事は出来るのか?
では、「生きる意味への問い」に医師は答える事が出来るのでしょうか。wikipediaのスピリチュアルケアの項目参照で申し訳ありませんが、
こういった問いかけと探究は相当に奥深いものがあり、生半可な知識では対応できるものではない。医療関係者であれば誰でも「スピリチュアルケア」ができるのではないか、などと思ってしまう人もいるかも知れないが、そうではない。ウァルデマール・キッペスはスピリチュアルケアを行うためには、全人的な基盤、すなわち哲学的および宗教的基盤の上に立ったしっかりとした教育を受ける必要がある、と述べている。また、飯田史彦も、「スピリチュアル・ケアを行うためには、ケアを行う本人が、しっかりとした宇宙観・人間観・人生観を持ち、それによって「救われて」いなければならない」と述べている。自分自身が、宇宙観・人間観・人生観をしっかりと学んで理解していなかったり、それら宇宙観・人間観・人生観によって自分自身が救われていなかったり(十分理解していなかったり)、救われないようなそれを抱いているようでは、とても他人を救う(しっかりと説明し、理解してもらい、救われてもらう)ことなどできるはずがないのである』※7
と説明されていました。 臨床宗教師などの登場により宗教者の方々の活躍が広がっていく中で、では、医師は霊的な健康に対してはその治療を宗教者に任せるしかないのでしょうか。残念ながら、現在の医学教育においては、そういった霊的な健康に対するアプローチを学ぶ時間はほとんどと言っていいほどありません。Bed side learningがその場だというのであれば、多少学べる機会もあるのかもしれませんが、終末期の患者さんを持ててかつ生きる意味などを語り合うような機会はなかなかありません。現役の医師の方々の中でも、患者さんの精神の深層にまで立ち入るような関わり方をしている人は少ないと思います。もちろんゼロではありません。患者さんにどこまでもよりそう医師や看護師さんもいます。ですが、残念ながらそれは個人の意識や資質、考え方や個人的な学びよるものであって、医学教育によって習得されたものではありません。しかし、医師にはそこまでの能力を期待されているようにも感じます。
模範解答のない問に向き合う時間が医学教育には必要なのでは?
現状のカリキュラムだけでも日々、医学生自身が抑うつ状態に陥る程の過負荷な勉強をしている(※8)にも関わらず、こういった問いに答えるための教育までしようとしたら、その負荷は18歳から20歳前半くらいの学生にはあまりにも酷すぎるかもしれません。一方で、医療の奥深さ、その人の人生に立ち入る職である以上ある程度のトレーニングや予備知識はもっているべきであるとも考えています。 手前味噌ではありますが、僕はIFMSA-Japanという団体の中の活動の一環として、「宗教イベント」という形で、医療系学生、医師と様々な宗派の宗教者をお寺にお呼びして勉強会を実施したことがあります。この体験は2泊3日の短い時間ではありましたが、宗教者の方々とそこで話した経験は僕の宗教観や人生観の形成に多くの学びを与えてくれました。このような勉強会がはじめは有志といった形であっても広がっていくことを望んでいます。いずれは、医学教育のカリキュラムの1つとして組み込みたいところです。医学部で学ぶ教育は基本的には医学、EBMに基づいた病態生理などであり、試験で問われるのは模範解答のある知識ばかりです。一方で、臨床の現場では、そういった医学的な知識だけでなく、模範解答のない問いに向き合う力が求められるのではないでしょうか。欲張りなのかもしれませんが、医師になるならば、カラダ、ココロだけでなく魂をも診れる医師を目指したいと思っていますし、他の学生にも同じように思ってもらえたらと考えています。
霊的な健康など非科学的とされるものへの批判
霊的な健康、宗教といった話を医療に交えてすると、いかがわしい、怪しい、非科学的であるといった批判は少なからず生じます。日本は宗教心が希薄であるとか、新興宗教団体による事件の印象から宗教というものをタブー視し、敬遠する風潮があります。また、医療はエビデンスに基づいた科学として語られるべきと考える人が多いのではないでしょうか?これについては、医療とはそもそもScienceとArtの側面が内在するものであるという認識が必要です。日本医師会の医の倫理マニュアルには、
医療はサイエンス(science)であると同時にアート(art)である。サイエン スは観察できることや計量できる事柄を扱うため、有能な医師であれば、疾患の兆候を認識し、健康を回復する術を知っている。しかし、サイエンスとしての医療には、特に人それぞれの個性、文化、宗教、自由、権利、責任に関わる部分において限界がある。医療のアートとしての側面とは、サイエンスとしての医学と技術を個々の患者、家族、そして地域社会 ―これらは同じものが 2 つとない ―に対して適用することである。個人、家族、地域社会に存在する 違いのほとんどは、生理学的なことではないため、その違いを認めて対応するには、倫理とともに、教養、人文科学、社会科学が主要な役目を果たす。』 ※9
と記されています。もちろん、EBMもロクに出来ない医療者がArtを語っても虚しく響くだけです。その点は自省も込めてしっかりScienceとしての医学を学び続ける姿勢は必要である事を認識しておくべきだと考えています。ただ、EBMには限界があり、アートの部分の探究もまた必要なものでありEBMのその先に向かう意識も必要でしょう。 また逆に、これまで非科学的とされていた宗教に関しても、Scienceの部分があり、例えば瞑想やヨガが与える生理的な変化や効能などは世界中の研究により日々明らかになっているところです。現代は、医療と宗教は混じり合い、さらなる発展が生まれていくその過程にあるのです。そもそも宗教が目指す先と医療が目指す先は全く別のものではない、むしろ近いところへ向かっており、アプローチが違うだけなのではないでしょうか。
まとめ
人の精神は体精神層、魂精神層、霊精神層に分かれており、霊精神層が侵されることで、「生きる意味」を失ったように感じる状態をアンヘドニアといいます。アンヘドニアのような、霊的な健康の異常は、医師が得意とする薬物による治療やカウンセラーが得意とする心理カウンセリングのみでは十分治療しきれません。
霊的な健康を治療する方法として、現在は臨床宗教師やスピリチュアルケア師によるスピリチュアル・ケアが行われています。
最初の問題に立ち返ると、「f.臨床宗教師を含めたチーム医療での治療を進める」といったものが、現状では別の正答選択肢としてあるのだと思います。
医師は、霊的な健康に関する問題が存在することを認識した上で、自分で学んでいくのか、宗教者など誰かに頼むのかを考えなくてはいけません。
また、そういった霊的な健康に関する問題は、終末期医療にのみ存在するものではなく、プライマリ・ケア、さらに言えばカラダとココロが健康な人の中にも存在しうるという事を認識する必要があります。
その上で、僕は、医師として、必要ならば宗教について学び宗教者となって、人のカラダ、ココロ、そして魂まで診ることの出来る医師を目指したいです。そして、そういった医師の数を増やす取り組みをしていきたいと考えています。また、そういった医師が今後ますます求められていると思っています。 一方で、多くの障壁や課題がありそうです。では、実際に何が出来るのか、何を学ぶ必要があるのか、発信しながら、学び、深めていきたいです。
ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございました。これから一緒に考えていきましょう。
注釈
※1 WHO憲章における「健康」の定義の改正案についてhttps://www.mhlw.go.jp/www1/houdou/1103/h0319-1_6.html
※2日本WHO協会 健康の定義について
https://www.japan-who.or.jp/commodity/kenko.html
※3濱田秀伯(2016),聖なるものの精神病理,精神医学史研究,20巻1号,page10-14
※4日本臨床宗教師会 http://sicj.or.jp/
※5日本スピリチュアルケア学会 http://www.spiritualcare.jp/about/chairman/
※6大下大圓,臨床瞑想法 心と身体がよみがえる4つのメソッド(第1版),2016,日本看護協会出版会
※7Wikipedia スピリチュアル・ケア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%AA%E3%83%81%E3%83%A5%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%82%A2
※8 医学生の3割がうつ病―47カ国研究から
https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20161228-OYTET50043/
※9 WMA医の倫理マニュアル
https://phio.panasonic.co.jp/kinen/shokai/b_gaiyo/hokoku/.../rinri_wma_manual.pdf
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