「日本一幸せあふれるまち」にミサイル部隊がくる――沖縄・石垣島でおきていること《市長選・前編》
陸上自衛隊のミサイル駐屯地建設を認めるか否か――。それ自体はもはや争点ではなかったが、政治的立ち位置を見定めるためには依然、重要な指標であった。2022年2月27日に投開票が行われた沖縄県石垣市長選で、自民・公明が推す現職の中山義隆(なかやま・よしたか)氏が4選を果たし、配備に関する住民投票の実施を訴えた前市議会議員の砥板芳行(といた・よしゆき)氏は及ばなかった。島の将来を左右しかねない「陸自ミサイル部隊」問題は、この選挙でどう問われ、どんな意味を持っていたのか。そこには日本全体に広がる政治状況の縮図のような光景も見えてくる。
1、初の「保・革共闘」
2月27日午後10時前、地元テレビ局が現職の中山義隆氏の当確を報じた。開票開始から1時間もたっていなかった。まもなく中山氏は石垣市内の選対本部で報道陣に勝因を語った。
「相手方が『保革合同』ということで初めての戦い方でした。私の陣営にも相当に危機感を持って取り組んでいただき、その分しっかりと組織固めもできて、なんとしてもコロナ対策をしっかりして、経済を回復させたいという思いで一丸となって動いていただいたおかげだと思います」
一方、砥板芳行氏。市内の選対本部でこう語りだした。
「4年前、現職市長の選対を預かっていた経験もありますが、選挙戦終盤は4年前のように自民党、公明党が総力を挙げてきていて危機感は持っていました」
そしてこう続けた。「これまでの『保守対革新』という戦いではなくて、石垣市政では初めてとなる『保守・革新共闘体制』の市長選。現在の長期政権を変えなければならないという市民の思いで、このような体制を作ることができた。スタートを作れたという意味では達成感はあります」
その言葉からも分かるが、砥板氏はこれまで与党側の市議として中山市政を支えてきた人物だ。石垣への自衛隊配備に協力し、有権者の3分の1を超える署名を集めた住民投票の実施には反対し、条例案を否決した側だ。その砥板氏が、今回の市長選で中山市政を「市民不在、独善的」と批判し、住民投票の実施を求めて戦った。
焦点の自衛隊駐屯地問題についてはこう語った。
「駐屯地は来年には開設される。周辺4地区の皆さん、市民の中には不安や懸念を抱いたまま日々過ごしている方々がたくさんいる。民意を示す住民投票の実施を訴えていました。市民の思いを置いてきぼりにすることなく、これまで以上に石垣市は努力をしていただきたい」
自身の今後については「昨年12月に与党離脱宣言をしたときに『政治生命を失うことも厭わず』と申し上げた。政治生命を捨てても独善的な市政を止めなければならないという思いでしたので、今後は政治家を目指すのではなく、違う形でみなさんのお手伝いをできればと思っています」と政界引退の可能性を示唆した。
この日の開票結果は、中山氏1万4761票、砥板氏1万2307票で、その差は2454票。投票率は70・54%で前回より3・01ポイント下がった。
今年、沖縄は選挙が集中する年だ。夏の参議院選挙、その後には県知事選が控える。「選挙イヤー」もすでに4か月が過ぎたが、自民・公明両党の推す候補の連勝が続いている。辺野古沿岸の埋め立てによる米軍基地建設を抱える名護市で1月に行われた市長選、同日の南城市長選、さらに4月の沖縄市長選で、いずれも自公候補が勝利し、玉城デニー沖縄県知事を支える「オール沖縄」勢力の推す候補は苦杯をなめている。
陸自配備問題を抱える県内の自治体では、21年1月の宮古島市長選で、「オール沖縄」の推す候補が勝利しているが、当選した座喜味一幸氏は、もとは自民党の沖縄県議会議員だった人物。宮古島駐屯地はすでに開設され、ミサイル部隊が配備されており、配備の是非そのものは選挙の争点ではなかった。
石垣市の場合はどうか。「石垣初」といわれる「保・革共闘」の候補が出馬するまでの道のりを、まずはたどってみたい。
2、難航する一本化
「去年の3月ごろから地元市議団を中心に人選を進めてきた」。石垣市議会の野党議員、宮良操氏は振り返る。
石垣市の政治には、「本土」では死語になりつつある「保守」「革新」という言葉がまだ残っている、といわれる。1994年の市長選で初当選した大濱長照氏は社民・共産などが推す「革新」で、大濱市政は4期16年続いた。だが、2010年に自民・公明の推す中山氏が当選し、以後3回連続で「革新」は「保守」に敗れていた。
「かつて公明党と『革新』は協力してきたが、中央での自公連立で公明が自民につくようになり、革新単独では勝てなくなった」と宮良市議。野党の市議らが考えたのが、革新を軸にしつつ、保守系の中から比較的リベラルな層を取り込む戦術だ。「保守」の中にも中山市政の長期化に対する不満はある。「革新」の主張のみにこだわるのではなく、「中道」的な考え方を取り入れ、幅広く共闘しよう、「革新」で戦うというよりも現在の市長を倒すという「大儀」のもとに新たな結集をしよう――という試みである。
引退した保守中道系の元市議らにも協力を求めて話し合いを進め、名前が挙がったのが、当時、市議だった砂川利勝氏だ。2002年の市議選で初当選し、4期務めた後、12年の県議選で当選。2期目の途中、18年の前回市長選で、保守系ながら中山市長の対抗馬として立候補。陸上自衛隊駐屯地の建設予定地である同市平得大俣は白紙に戻すことを掲げた。この時は、中山氏、砂川氏とともに「革新」から宮良市議が立ち、三つ巴の戦いは中山氏に軍配が上がる。
この時の得票数を見ると、中山氏1万3822票、宮良氏9526票、砂川氏4872票。
つまり、宮良氏の「革新」票に、砂川氏が得た現市政に対する「保守」の批判票を合わせれば、中山氏の得票を上回る計算になる。県議も務めた砂川氏は広く人望があり、野党市議らは期待を持って「保・革共闘」に向け、協議を進めてきた。だが、砂川氏は7月に死去。その後も同氏の後援団体「島づくり会」や、市民主導での市長選候補擁立のために設立された「『チェンジ市政』石垣市民の会」などと連携し、「4選阻止」に向けて候補者一本化の協議が続いた。
次に名が挙がったのは、元市議会議長の知念辰憲(ちねん・たつよし)氏だった。市議7期。議長を2回務め、2018年に引退している。自民党市議として中山市政を支え、前回の市長選では中山市長の選対本部長も務めたが、多選については批判をしていた。自民ではあるものの、19年の住民投票条例案や21年の自治基本条例改正案など、近年、与野党が厳しく対立した案件の採決に関わってないことから、「革新」支持層からも反発は出にくいはず、とのよみもあった。
21年12月17日、中山市長は市議会で、4選を目指す考えを表明。同22日、野党市議と「『チェンジ市政』石垣市民の会」、砂川氏の後援会「島づくり会」、保守層の新たな受け皿づくりを目指す「ちゅら島の会」の「保革4団体」は、知念氏に正式に出馬を要請する。知念氏は「立場を超えた要請に石垣市が変わる新しい1ページになると感じた」(23日付八重山毎日新聞)と出馬に前向きな考えを示す。「革新」と「保守」が協力して「保守」の人物を推すという初めての試みが始まるように見えた。が、事態は二転三転する。
3、砥板氏の出馬
要請の翌日23日、知念氏は、出馬を辞退すると関係団体に伝える。理由は「身内の同意が得られない」。その代わりに保守側から挙がった名前が、砥板氏だった。想定外の事態に関係者は驚愕するが、年内の出馬表明を考えれば、もう1日の猶予もない。25日、関係団体が集まり、砥板氏を交えての話し合いになるが、異論が相次ぐ。
前津究(きわむ)市議は「政治信条を曲げてまで応援はできない」と退席。長浜信夫市議と革新系の会派「ゆがふ」の花谷史郎、内原英聡両市議の3人が態度を保留した。「石垣市民の会」共同代表の一人、嶺井善(まさる)さんも「陸自配備地の周辺4地区の代表であり、今は保留しかできない」と慎重だった。
結局、ほかの4人の野党市議らはこの日、砥板氏の擁立を発表。翌26日には、砥板氏本人が記者会見し、出馬を表明した。
地元紙の八重山毎日新聞(12月27日付)によると、会見で砥板氏は、問題になっていた市役所の新庁舎建設や島内のリゾート開発の問題を取り上げ、「(新庁舎建設を巡る問題で)ウソをウソで塗り固め、それが暴露されると開き直って正当性を平然とした顔で述べている」「開発を優先するあまり、自然環境を守っていく姿勢が見られない」と中山市政を批判。最大の争点は「独善的な現市政を継続するかどうか」と語った。一方で、自衛隊駐屯地建設については「再来年(2023年)春には開設される状況なので大きな争点にならない。住民の不安を払しょくできるよう、さらなる負担を強いられないよう、自衛隊から話や要請があればすべて開示して意見を聴きながら政策決定をしたい」と述べた。
あまりに急な展開に「革新」支持者からは「何か裏があるのでは?」との疑念の声さえ上がったが、土壇場で辞退した知念氏は取材にこう語っている。「中山市長は、議会で野次を飛ばしたり、人の話を聞こうとしなかったり。4期目は出るべきではない。ぼくは出馬する腹をくくっていたが、家族の理解がどうしても得られなかった」
市長選の舞台に躍り出た砥板氏は、どのような経歴の政治家なのか。石垣生まれの53歳。家業は市内で工事業を経営。「八重山青年会議所」理事長を務め、2010年の市議選で初当選し、3期目。自民党に属し、同じ年の市長選で当選した中山市長の「右腕」的な存在で、市政運営を議員の立場で支えてきた。日本最大とされる保守主義の政治団体「日本会議」の会員で、地元で自衛隊の誘致活動を進める「八重山防衛協会」の事務局長。市議会与党のリーダー格であり、陸自配備問題など近年の重要論点で、常に中山市政の側に立ってきた。
自衛隊配備計画をめぐり、2016年に市主催で開かれた公開討論会では、配備賛成の立場で登壇。「日本の安全保障に直結する問題」と述べて配備の必要性を訴えた。尖閣諸島近海での中国船の航行などを理由に「自衛隊の抑止力は必要」という考えだ。
名護市辺野古の埋め立てによる米軍基地建設の是非を問う県民投票が19年に全県で行われたが、その前年には県民投票条例案に反対する意見書を自ら市議会に提案し、可決させている。自衛隊配備を巡る石垣市の住民投票条例案は否決に回り、防衛省への市有地売却には賛成し、同市の自治基本条例から住民投票条項を削除する改正案にも賛成した。「極右」と呼ぶ市民さえいた。
だが、その政治姿勢に変化が見られたのが、2021年9月議会での、市役所新庁舎の建設に関する質問だった。この年の11月に開所した新庁舎は、琉球の伝統を取り入れ、屋根一面に赤瓦が葺かれた壮観な趣が特徴だが、使用された約12万枚の赤瓦は沖縄産ではなく県外産であることが明らかになっていた。砥板氏は、なぜ県内の業者に発注しなかったのか、を追及。工事関連の請負契約額が大幅に増額されること、建設に携わった作業員の8割が島外から来ていたことなど、建設に関わる疑問点を挙げ、当局に厳しく問い質した。
この議会で野党側は、新庁舎建設の問題点を調査するため、地方自治法第100条に基づく調査権を付与した特別委員会(百条委)の設置を提案した。市議会は市政与党が多数派だが、砥板氏を含め一部の与党議員が賛成したため、百条委は設置されることになり、砥板氏も委員になる。中山市長から見れば「背信行為」である。
3か月後の12月議会一般質問は決定的だった。赤瓦調達での市当局の対応に強い疑問を示したうえで、「私は、この一般質問でもって与党の立場から離れ、どちらにも属さず、一議員として政治生命を失うことをいとわず、百条委員会市議として残りの職務の任期を全うしてまいりたいと思います」と述べた。八重山毎日(12月14日付)は「砥板氏、市長に決別宣言、百条委で徹底追及へ」と報じた。
このような経緯の末に、砥板氏は中山市長の対抗馬に立つことになる。だが曲折はなお続いた。
4、野党市議からの異論
年が明けて22年1月中旬、陸自駐屯地建設現場に近い石垣市於茂登の公民館。地域で農業を営む嶺井善さんは、苦悩に満ちた表情で語った。
「砥板さんは、住民投票条例案に反対、自治基本条例から住民投票条項を消すのに協力し、海上自衛隊の誘致にも動いていた。そういう人を推せる? ぼくが砥板さんに投票するのはいいよ。でも『砥板と書いてくれ』と隣近所の人には言えない」
嶺井さんは、今の市政運営に反対する市民が中山市長への対抗馬擁立を目指して21年10月に設立した「『チェンジ市政』石垣市民の会」の共同代表の一人。駐屯地建設に反対する地元の人々からは、これまではまったく相容れなかった砥板氏の政治姿勢について疑問の声が上がっていた。
1月6日、「市民の会」は砥板氏本人と野党市議との意見交換会を開いた。砥板氏は12月議会での「決別宣言」を伝え、「独善的な市政を変え、市政を市民の手に取り戻す」「一議員と市長の立場は違う」と述べるが、会場からは不満が噴出。出席した野党市議に対しても候補者選定に議論が足りないとの批判が相次いだ。
この意見交換会には、砥板氏擁立に同意していない4人の野党市議が欠席した。その中から新たな動きが出てくる。
1月10日付の八重山毎日は、野党会派「ゆがふ」の花谷史郎、内原英聡両市議が砥板氏とは別に独自の候補者の擁立に動いていることを伝え、「野党分裂へ」と報じる。その3日後、花谷市議に話を聞いた。花谷氏は駐屯地建設現場に近い4地区(於茂登、開南、嵩田、川原)から推されていて、自らも地元で農業を営む。自衛隊配備には反対の立場だ。
「砥板さんは防衛に関する知識もあり、自衛隊問題では賛成派議員の中でも先陣を切ってきた人。野党が彼を擁立するのであれば、より慎重な議論が必要であるはず。だが、短時間で決まってしまった」
当初擁立するはずだった知念辰徳氏についても、「野党が一丸とならないと勝てないので、折れに折れて百歩譲った結果。これよりも下がったら私たちは崖から落ちてしまう」。
翌週には「ゆがふ」の内原市議が出馬の意向を固め、近日中に記者会見を開いて正式表明する考えを示す。内原氏の祖父は、「革新」市長を4期務めた内原英郎氏である。「賭けではあったが、勝算はあった。相手の保守側が分裂した形になり、こちらはどの政党もつかない『市民党』で支持を得やすい。なによりも、たとえ敗けるにしても貫くべきものは貫かなくては、との思いがあった」と語る。
それでも野党「一本化」への模索は続く。市長選告示1カ月前の1月20日、態度を保留していた野党の長浜信夫市議が、砥板氏と政策協定書を交わし、支持を表明する。協定書には、自衛隊配備について住民投票の実施、他の自衛隊施設建設は許さない、自衛隊による空港、港湾の使用は災害・人命救助以外は認めない、リゾート開発の抑制――などのほかに、防衛省と賃貸契約を結んだ市有地について任期中に契約更新をしないことが盛り込まれた。「駐屯地の周りは多くが市有地。これ以上の基地拡張は認めないため」と長浜市議は言う。砥板氏にとってはこれまでの政治姿勢から大きく舵を切った内容だ。
長浜氏は説明する。「本心は工事ストップ、島に軍事基地はいらない、という気持ちだが、中山市政3期の間に石垣市の『保守化』は進んだ。保守対革新の構図ではもう勝てない。市民に十分な説明もしないで市の事業を進めるような現市政を続けさせるわけにはいかない」
砥板氏については「議会では対立してきた人だが、市長に決別を宣言し、二度と市政与党には戻れなくなった。彼は生まれ変わった。市長になったら『革新』の支持がなければ市政運営はできない。政策協定を破って暴走することはないだろうと考えた」。
5、玉城デニー知事が「後見人」
翌21日、宮良操市議ら野党4市議が砥板氏と政策協定を締結。陸自配備予定地の賛否を問う住民投票の実施と結果の尊重はもとより、投票期間中の工事中止を国に申し入れる、市民合意のない配備強化・施設建設に反対する、米軍の駐屯地施設の共同使用、共同訓練に反対する――など10項目の協定は、野党側のこれまでの主張をほぼ取り入れたものだった。
同日、野党会派「ゆがふ」も砥板氏への合流を決断。内原市議は出馬を断念する。「ゆがふ」と砥板氏が交わした政策協定は、住民投票のほか、「住民合意のない自衛隊配備について、明確に反対します」と明記。石垣の自衛隊配備のみならず、名護市辺野古の米軍基地建設にも反対することを掲げていた。
23日の日曜日、花谷、内原両市議は砥板氏とともに沖縄島に飛び、那覇市内の玉城デニー知事の公舎を訪問。これには砥板氏の選対本部長を務める次呂久成崇(じろく・まさたか)県議が同行した。地元選出の次呂久氏は玉城県政の与党議員の一人で、知事と陣営をつなぐ役でもあった。知事の立会いのもとで協定の内容を確認し、その日のうちに石垣に戻って開いた協定締結の記者会見には、照屋義実副知事が同席。砥板氏と玉城県政との連携を強調した。
急展開の背景について、花谷市議はこう解説する。「保守」の中でも右派とみられていた砥板氏を保・革共闘の候補に立てるのであれば、自衛隊問題についてかなり明確に言及しなければ、「革新」支持者の理解は得られない。おそらく配備反対まで打ち出すことはないだろうと考えていた。だが、思いがけず方向転換し、野党側の主張に沿う形で政策協定に応じた。それが「ゆがふ」の方針も変えさせた第一の理由という。さらに、もうひとつ重要な点があった。
「これまで沖縄県は自衛隊配備についてはほとんどノータッチ。駐屯地建設を止めるための努力をしていない」。確かに辺野古埋め立てへの反対姿勢とは異なり、南西諸島の自衛隊配備に対する玉城県政の明確な態度は見えにくい。「しかし開発行為に対しては県の権限でできることがまだある」。そのために玉城知事を、砥板氏との協定締結の「後見人」にする。「その担保がとれたのは前進と思っている」。照屋副知事の同席もそういう意味があった。
内原市議は「出馬をやめても信義を曲げないために結んだのが政策協定であり、その最大の担保がデニーさんだった」。砥板氏が市長であれば、工事の騒音などすでに起きている市民生活への悪影響を最小限にするための対話ができるだろう、と考えたという。
1月28日、市民団体「『チェンジ市政』石垣市民の会」も砥板氏と政策協定を締結。住民投票の実施はもちろん、「市民の声を聴く市政の実現」「石垣島の豊かな自然・文化を守る市政の実現」が掲げられた。
「市民の会」共同代表の嶺井さんは「中山市長は、陸自配備で地域住民に説明する約束も破った。なんとしても市長をかえたい」。そのうえで砥板氏支持に至った自らの気持ちを語った。「砥板さんはこう言った。議員と違って市長は、市民の意見を聞いて地域全体のためによい方向へ物事を進めなければならない、と。その通りにしてくれるなら期待できると思った」
野党市議のなかで、前津究市議は最後まで砥板氏を支持しなかった。「彼はこれまでの自分の政治姿勢についての反省の弁が一言もない。しかも砥板氏と政策協定を結んだ保守系団体は、陸自駐屯地の建設を容認している。明らかに矛盾だ」と批判。選挙の行方については「石垣島はまだ『革新』という言葉が生きている。革新が右派の砥板氏を立てるのは、支持者を裏切ること。これでは勝てない。内原市議が出馬するべきだった。投票に行かない人がかなりいて、投票率は下がるだろう」。
市民、関係者がさまざまな思いを抱くなか、「保守・中山氏」対「保革・砥板氏」による一騎討ちの構図が確定する。石垣では異例の様相となる市長選の告示まで3週間を切っていた。=続く=
川端 俊一(かわばた しゅんいち) 元新聞記者