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8. 知識伝承と部族社会

 核家族化の波が社会を覆って久しいが、僕の幼少期にはまだ祖母の家が近くにあり、共働きの両親はこれ幸いと、祖母宅に幼い自分を学校帰りに放り込んだものだった。その頃は理解できていなかったが、恐らく「家の歴史」というものを染み込ませてもらう存分な機会を設けられたのは、この時世においては大変贅沢だったのではないか、と今になって感に入る。

 勿論、インターネットを介して、今や家にいながらでも地球の反対側でさえつながることができる時代だ。況や祖父母宅をや、とも言える。情報はグローバル化し、その気になれば祖父母宅も例外なく情報を得るための場所に仕立て上げることが可能だ。そういう意味で、中途半端に核家族化が進んだ時代よりも、その気になれば祖父母とのコミュニケーションは離れていても密にできるのかもしれない。あくまでその気になれば、の話ではあるが。

 しかし『哲学入門』(ちくま学芸文庫)を著したバートランド・ラッセル氏の表現を借りると、記述を通して間接的に得られる「記述による知識(knowledge by description)」はインターネット時代においてはあふれ返るほど存在している一方で、知覚を介して直接的に得られる「知覚による知識(knowledge by acquaintance)」は、いまだ空間の制約を受ける。

 メールやSNSでの純粋な「記述による知識」のやり取りではなく、せめて画面越しの会話ならば、確かに一部の直接的な「知覚による知識」を提供するのかもしれない。祖父母の顔つき、声などはその代表例だろう。けれども、祖父母の家という空間の中でしか得られない直接的知覚がもたらす知識は、重要なものではなかろうか。在りし日の写真などの記録、家の歴史を示す調度品、そしてなにより祖父母と直接触れ合い、色々な昔話を聞く機会。これらはやはりインターネットが世に氾濫させた「記述による知識」とは、一線を画すものだろう。

  ただ敢えて例外を探せば、第6回で提示した様に、グローバリストたちは『社会学の考え方〔第2版〕』(ちくま学芸文庫)によると、「脱領域性を特徴とし、特定の場所に縛られることはなく、いったん緩急あれば、どこかに拠点を移す準備がいつもできている」という。こういう人々にとっては、一昔前まで距離なんて簡単に超えられるものだった。問題はただ移動手段が規定する速度と、そこに投じる費用だけでよかった。尤も、今や世界的に移動が制限され、グローバル化の弊害やローカルの価値といったものが再認識されるようになった。

 とはいえ、核家族化が進んだ現代、家の歴史なんてものは顧みられなくなって久しいものの一つなのかもしれない。ただ現代でもそうした受け継がれる伝統を重視し、このウイルス騒動で著しい被害を被っている方々がいる。アマゾン先住民地域の人々だ。

 そもそもアマゾン流域のブラジル自体が、COVID-19による破滅的な被害を受けている地域だ。それは勿論ボルソナロ大統領が経済を優先し、大統領自らがこのウイルス性疾患に感染した後でさえも、感染封じ込めに消極的なことが最大の要因といえる。ついにブラジル全体での感染者は300万人を超え、死者もそれに伴い10万人を数えるようになってしまった。

 それに加えて、先住民の感染率は抗体を用いた研究によると、白人の6倍に上るのではないか、という。その背景には生活様式や貧困、場合によっては人種差による影響などの理由があるのかもしれない。少なくとも断言できるのは、この疾患は高齢者や持病を持つ人々に対して比較的重症化・致死的になりやすい疾患であること、そして先住民の長老たちの命が実際に奪われていっているという冷徹な事実があることだろうか。

(下のリンクはNew York Times記事の一部日本語訳。ただNew York Times自体の記事は、グラフィック含めて圧巻)

 先住民の知識は、いまだ直接の伝承で受け継がれることも多いという。即ち「記述による知識」ではなく、「知覚による知識」を介してこれら部族の歴史は滔々と、現代まで流れ着いたのだった。しかしいわゆる「語り部」の役割を果たしていた長老たちが亡くなることは、そのままその部族の文化に深刻なダメージを与えることと等しい。長老たちの経験こそが部族の歴史そのものである以上、残された者たちは歴史を回復する術を持ちようがないのだから。

 実際のところ、もしや「語り部」たちの神話体系が記述的知識として残されている部族であっても、森の中でどのように資源を活用し、どのように振る舞うとよいのか、といった類の知識は、「記述による知識」での伝承には限界があるだろう。森に分け入り、直接の指導を仰ぐほかないというのは、納得がいく話だ。

 尤も、中南米において社会を壊滅的被害に追い込んだのは、このウイルス性疾患が初めてではない。ジャレド・ダイヤモンドが『銃・病原菌・鉄』(草思社文庫)で指摘したように、古くはヨーロッパ文明とアメリカ大陸が邂逅した16世紀に、同地へ持ち込まれた天然痘が猛威を振るったこともあった。上記から引用すると、

結局、スペイン側の勝利を決定づけたのは軍事力ではなかった。一人の奴隷が1520年にメキシコにもたらした天然痘の大流行のおかげで、スペイン側は勝つことができたのである。この流行によって、アステカ帝国の人口のほぼ半分が死亡した。犠牲者のなかには皇帝クイトラワクもいた。アステカ人の命だけを奪い、スペイン人には何もしないという謎めいた病気は、生き残ったアステカ人にすれば、あたかもスペイン側の無敵さを示すもののように思え、士気は低下していった。2000万人だったメキシコの人口は、天然痘の大流行によって、1618年には160万人にまで激減していたのである。

という。また天然痘は、メキシコからインカ帝国へと達し、皇帝ワイナ・カパックまで手をかけてしまった。おかげでピサロがインカ帝国を侵攻する頃には、インカ帝国は後継者争いの渦中にあったのだった。

 今再び部族社会の知識継承が危機に曝されている。ここで僕は「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」という言でも有名な、クロード・レヴィ=ストロース氏の『悲しき熱帯』(中公クラシックス)を思い出す。かの著作は1930年代にアマゾン流域の未開部族を訪ねてできた著作であるが、そこで著者はルソーの言を踏まえ、

ルソーが、人類は「未開状態の無為と、われわれの自己愛の手に負えない活動との丁度中間」を保った方が、われわれの幸福のためにはよかったかもしれないと言ったのは、恐らく正しかったのだろう。

と記載している。そんなレヴィ=ストロース氏が今のアマゾン流域の部族社会における状況を見てどう語るのかは、既にかの御仁が鬼籍に入られた今は、想像する他ないのだろう。ただ僕は、この機械文明の移動の自由によって世界的なものとなってしまった災厄が、巡り巡って部族社会に襲い掛かる姿に、ルソーの言の正しさがそこはかとなく漂うことを認めざるを得ない。そして我々が歩むべき次の世界、即ちグローバル化により繋がり過ぎた社会への反省をどう生かすかが、ルソーに、そしてレヴィ=ストロース氏の助言へ報いる手段となるのだろう。

第1話:「1. COVID-19:第二波が高まる最中に」はこちら
次回:「9. 「描かれない」ことから読み解けるもの」はこちら

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