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2. 危機における政治家

 この文章を書いている7月中旬といえば、本来ならば祇園祭。八坂神社とその界隈が活況を呈する頃合いのはずだった。最大の見せ場である山矛巡行が無くなるなど、行事が縮小されざるを得なかったのは致し方ないだろう。それでも一部神事がしめやかに行われる運びとなり、伝統が受け継がれていく道筋が途絶えずに済んでなによりだ。

 祇園祭の由来に関しては、「梅原日本学」で名高い梅原猛氏が『京都発見 🈔路地遊行』(新潮社)において、社伝の『祇園社本縁録』を元に下記のように記載している。

 貞観十一年六月七日疫病が流行り天変地異が起こり、五穀実らず、諸社に使者を出してその災害の平定を祈らしめたという。さらに、社伝には、疫病が流行したのは、政治的に失脚した怨みを持つ人の祟りであるとして、矛六十本を立て、祇園社から神泉苑へ神輿を送ったとある。これが、今の祇園祭の初めとされる。


 貞観十一年とは、西暦で869年、清和天皇の御世であった。その頃から為政者にとって疫病は、己が治世における危機として対処されていたようだ。八坂神社の主神である牛頭天王の威信を借り、御霊会として疫病という邪霊を払うために振るわれた矛はどんどん大きくなり、いつしか壮麗な山鉾へと変貌を遂げた。疫病という災禍に立ち向かった為政者の、そしてそれを引き継いだ町衆の祈りが、この祇園祭を介して脈々と現代まで受け継がれているというのは、なかなか壮大な話ではないだろうか。

 さて、今を生きる我々としては、危機の対応における姿勢を、近代の指導者に求めるのが妥当かもしれない。かのウィンストン・チャーチル氏が第二次世界大戦を後に回顧し、「権力は、他の人々の上に君臨し、あるいは自分に錦をかざるためのものであれば、当然のことながら下劣と判断される。しかし、国家の危機にさいして、どういう命令をくだせばよいかがわかっているときには、権力は神のたまものである」(『第二次世界大戦2』 河出文庫)と説いた。

 このCOVID-19騒動を鑑みると、例えばブラジルにおいて感染拡大を招いたボルソロナ大統領が、挙句の果てに自らウイルスに罹患してしまった。また感染している最中に記者団の前で健在ぶりをアピールするためか、いきなりマスクを外してその場にいた者たちを感染の機会に晒すという所業。彼の無知・無策により、さらなる感染の危機に直面している無辜のブラジル国民の苦労と怒りが偲ばれる瞬間だった。その反面、この試練直前は極右の意見が跋扈していたドイツでは、今や再びメルケル首相がかの国を率いる英雄として凱旋しているではないか。

 ようやく危機に際し、ポピュリズムが席巻した時代から、政治家の在り方が、そしてなにより国家の在り方が、真に問われるタイミングが帰ってきたようだ。「情勢のいちばん基礎になっていてふだん見えないものが、危機の時期には表面にみえてくる」とは『戦略的思考とは何か』(中公新書)より引用した元外交官の岡崎久彦氏の言だ。このCOVID-19騒動によって、日本のみならず世界の社会基盤において蓄えられていた歪みが、嫌でも炙り出され始めた。

 特に世界を震撼させた出来事としては、先日も言及したが、やはり中国政府による香港における1国2制度の終焉を挙げたい。本来1997年から2047年まで50年間にわたり保証されるべきだった香港の「高度な自治」は、2020年にあえなく「香港国家安全維持法」によって瓦解してしまった。COVID-19が無くともいつか迎える終末だったかもしれないが、このパンデミックに各国が忙殺されるタイミングがあったからこそ、香港の蹂躙という暴挙が誘発された感は否めない。

「韜光養晦(とうこうようかい)」、つまり才能・野心を隠しつつ力を蓄え、油断した周囲にいつか牙を向かんとする方針を中国が掲げたのは、鄧小平の頃だった。だが胡錦涛政権の頃から徐々に積極外交に転じ始めた中国。習近平政権に至ると、「中国の夢」:中華民族の偉大な復興を実現させるという野心を呈することを憚らなくなり、遂にはかつて同意したはずの国際条約までも反故にしてしまうところまで至った。

 もちろん香港における民主化運動の進展に、中国政府が強く危機感を抱いており、国内の民主化運動の引き金にあることを防ぐためにもここで手を打たなければ、という強迫観念に駆られたのは、事実の一側面だろう。しかしながらこの悲劇的な幕引きは、対立が深刻化していたアメリカのみならず、元宗主国のイギリスが属するヨーロッパ諸国、そしてもちろん日本を含めたアジア・オセアニア地域も震撼させた。そして香港はあえなく金融センターとしての地位を脅かされ、この先にはさらなる経済の分断が、即ち冷戦の再燃すら想定される不透明な時代が幕を開けたのだった。

 ローマ時代の昔に歴史家クルチュウス・ルーフスが語って以降、「歴史は繰り返す」というフレーズはよく喧伝される。後世の歴史家たちは、民主化を期待して援助された中国が肥大化し、周辺諸国のみならず欧米諸国が築き上げた国際秩序を踏みにじろうとする有様を、恐らく宥和政策によりナチスドイツを増長させたイギリスとに類似性を見出すのではなかろうか。

 第二次世界大戦直前期のイギリス首相であったのは、「宥和政策」で名を馳せたネヴィル・チェンバレン氏だった。この宥和政策が、即ちミュンヘン会談におけるヒトラーへの支持が、最終的にはドイツ国内でのヒトラーの地位を確立させ、先の大戦を招くに至った。ただ1931年に生まれた挙国一致内閣、即ちマクドナルド氏とボールドウィン氏が手を組み、軍縮を進めてドイツとの間に戦力不均衡を生み出す素地を作り上げた頃から、既に戦争への序曲は始まっていたのではないだろうか?

 マキャベリの言には「人間は小さな悪に対しては復讐するが、大きな悪に対しては復讐しない」というものがあるそうだ。積み上げられたドイツとの戦力格差が、ネヴィル・チェンバレン氏の各種宥和政策に影を落としたことは、否めないだろう。同時に、2000年以降の中国における拡張路線に対しもっと早く釘を刺せていれば、ここまで決定的な国際社会との対立が生じなかったのではないか、と思わなくもない。

 COVID-19騒動の最中にも拘わらず、尖閣諸島が連日中国船の脅威に晒される日本も、この戦力不均衡とは切っても切り離せない運命にある。日本単独では、最早この戦力差を覆すことはできない。しかし日米同盟のみならず、「自由で開かれたインド太平洋構想」:日本・アメリカ・オーストラリア・インドの4ヵ国による安保連携は、中国へのひとつの抑止力として働くことが期待されるだろう。

 インド国境における中国とインドの対立の激化、また南シナ海問題や内政干渉に端を発し、COVID-19の発生源調査の要求などで決定的となった中国とオーストラリアの対立は、今後の日本の立ち位置を担う基盤を揺るがしかねない大きな国際情勢の変化となるのかもしれない。もちろん今年はアメリカ大統領選もあり、さらに情勢が混迷を極めるのは避けられないはずだ。

 このCOVID-19が世界的に猛威を振るうことでもたらされた副次的余波とも、我々は向き合わなければならない。ワクチン開発が進み、もしCOVID-19が予防可能な社会を迎えたなら、パクス・アメリカーナが破綻しつつある不均衡な世界は、一挙に泥沼化し得る危険性を秘めているのではないだろうか?次の時代に向け、ますます英知を養うことが我々の今できる義務なのかもしれない。


第1話:「1. COVID-19:第二波が高まる最中に」はこちら
第3話:「3. マスクとマクロ構造的状況の変化」に続く

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