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【随想】大人になるということ

会議と作業に明け暮れる怒涛の月初、バタバタと残業を切り上げて、急いで夕飯を食べてから、師匠の「大人になりきれない大人のための心理学講座」にリモート参加した。

受講しながら、思考があちこちに及ぶ。
自分にとっての大人って、なんだろうと改めて考える。

自活できている状態、という言葉がポンと浮かんできた。
それについて、考えてみる。

僕が実家を出たのは20代の終盤。

父の闘病が終わってからだった。

本郷に借りた物件は新築でピカピカ、間取りも最高!と当初は思っていたけれど、そこで過ごすうちに人間の住まいには日当たりが重要で、かつ一人暮らしの現代人には宅配ボックスが必須なのだと思い知ることになる。(つまりその物件には両方欠けていた)

ちなみに東大生で溢れる本郷の飲食店内は常に品格が保たれていて、
僕の知っている学生街とはまるで違う雰囲気だった。

少なくともカウンター式の家系ラーメン屋で、静かに天体物理学の話を繰り広げる学生たちを、他の街で見たことがない。

僕はそんな本郷が大好きだった。


…話がそれた。
「大人」の話題に戻る。

一人暮らしを始めるにあたってワクワクする時間のひとつは、家の中のものを揃えているときだと思う。

家具や家電を自分で選んで買うのは楽しかった。

ただ、例えば見た目や雰囲気を気に入って食器を買っても、そこにどんな料理を盛り付けるのか予め想像できないと使いにくいということを、自炊するようになって知った。

立派な焼き鮭も、乗せる皿次第で随分と意味ありげな余白が誕生することを、子どもの頃は知る由もなかった。

なんだか現代アートのようになった。せめて大根おろしを添えたいところ


ところで、「大人」の定義に、仕事で糧を得ている状態、というイメージを持つ人もいるかもしれない。

その意見にも、なるほど確かにと頷ける部分もある。
僕の両親は共働きで、職場は祖父が興した小さな会社だったので幼少期から事務所でよく遊んでいて、社員さんにも相手をしてもらったし、仕事をしている祖父や両親の姿もよく見ていた。
だから「仕事をする大人」は割と身近だったと思う。

ただ、じゃあ自分が働いて稼ぐようになったとき「大人になった」と思ったかというと、そこまでではなかった気がする。
僕は大学生の頃、地元の映画館にて時給720円という都内最低賃金で働いていたので、社会人になった初月から給料で何十万円も貰って衝撃を受けたのだけれど、大人の実感はそこまで無かった。

それよりも、家を出て一人暮らしをして、自分の力で「生活」を営めるようになったことの方が、何倍も嬉しかったし、誇らしかった。

自分のために食事を作って後片付けをして、洗濯して掃除して、ゴミを捨てる。

そういう連なりが、僕にとっての「大人」の要素のひとつだったのだろう。

両親が家事をしている姿を、ずっと見てきたからかもしれない。

父は朝食を作り、アイロンをかけ、風呂掃除をしていた。
母は夕飯を作り、洗濯をして、ゴミの始末をしていた。

それをようやく、自分もちゃんと出来るようになった、ということが、
嬉しかった。

(という話を後日母親に話したら、「実家にいる頃からやれよ」と叱られたけれど、実家ではやる気が起きなかったんだよなぁ。不思議だ。「子ども」に徹していたということなのかな)


僕の精神年齢は、いったい今いくつなのだろう。


答えを見つけるために、魚用の良い皿を探す旅に出たい。


文責:俊

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