人に迷惑をかけて生きろ!
人に迷惑をかけるな。そう言われて育つ社会だ。最近はそれが特に顕著だろう。集団の中からはみ出さないこと、溶け込むこと、個性を埋没させること、それが自然と出来る人は、割と楽に生きられるのかもしれない。
だが知らず知らずのうちに我慢していることも自分の中では分かっていなくてはいけない。そのために、1人になる時間が必要な時代になってきた。人と付き合うためには自分の個性や特徴を埋没させないといけないから、それを放出できる時間が必要なのだ。
ただ、それが我慢と思わない人もいるだろう。そういう生き方をしすぎてきていて、それが自分の中で自然になってきている。角がなくなって、みんなと溶け込むことが自分の個性、みたいな、そういう方が楽な人もいる。そういう人は、自分がイキイキしているうちは生きることが楽だろう。
その世論が盛り上がり、社会はそういう角がない人を温和に受け入れる土壌になってきつつあるから、角がある人は生きづらいだろう。
そして、そうして生きづらい人が最後に死ぬときにすら、世間から冷たい目で見られながら死んでいく。親不孝だ、自殺なんてしてはいけない、何があったんだ、と、知らぬ人の親指でコメントが寄せられるにつれて、そういう人はもっと生きづらくなって、後にも先にも進めなくなる。
いつからこうなったのだろう。芥川龍之介は、漠然とした将来の不安という理由で死んだ。そんな単純に死ねることはもうないかもしれない。そんな理由が認められることなんてないかもしれない。
当時は生きたくても生きられない人もいただろうし、すぐに死んでしまう人もいただろう。逆に死にたいのに生きてしまう人なんていなかったはずだ。そして死ぬことで後ろ指を刺されることもなかったはずだ。
だが今は、そんな長く生きたくもないという人もいると思うし、死にたくても色々あって死ねないという人もいるだろう。それは、自分が死ぬことで誰かに迷惑がかかるかもしれないという不安も含まれている。
僕は、こういう風潮は絶対におかしいと思う。人は、人に迷惑をかけて生きる。人に迷惑をかけずに生きている人なんていない。そんな人は絶対にいない。そして、人は人に迷惑をかけられることを喜ぶ。なんだかんだで、お節介に生きたいのが人間なんだ。
人が死ぬことに後ろ指を刺すようなpvを集めたいマスコミの風潮によって、何をするにも批判とかコメントが寄せられて、いろんな考えがそこに集まってカオスとなる。それをみて更にみんなが怖くなる。こんな世の中、もう辞めたい。
人のことは人のことで、放っておこう。別に尊重とか称賛、共感もいらない。プライベートはプライベートで、ある意味放置される場所を作ろう。
そして人は人に迷惑をかけて生きることが大前提で、むしろ人に迷惑をかけて生きよう!と全員がなる風潮を目指そう。
何をするにも安心して色んなことができる世の中。それこそが本当に自由な世の中、社会なのではないかと思う。
lior