「お金をもらうこと」に強い抵抗があった子どものころ
この文章は、昨日届いたMacbookAirでベッドに寝転びながら書いています。
もともとMacbookAirを手に入れるなんて、少なくとも5日前には考えてもいなかったのです。それがAmazonの「増税前最後のタイムセール」で妙に安く、しかも使えるポイントを全額つぎ込んたら7万を切ることに気がついたらもうその瞬間に「買わない」という選択肢はありませんでした。ちょうどSurfaceとか、持ち運びが容易なパソコンが前から欲しかったし。
ところで僕はお金をもらうということが長らく苦手でした。今でも今回のMacbookのように多額の買い物ってすごく勇気が要ります。クレジットカードを使うようになって、諭吉さんが何人もいるような現金のやり取りが減ったことに実は結構救われてます。それでもたかだか1万円くらいの買い物でも逡巡してしまう自分がそこにいます。
とはいえ、昔と比べて(非正規だけど)仕事をしてお金を稼ぐ身にもなったし、こうして生活を少し豊かにしたり自分のためにお金を使うようになって人生が楽しくなったのは事実です。しかし子どものころは「お金をもらう」ことに強い嫌悪感がありました。
ある日、東京に住む親戚がうちに来たとき、帰り際にお金をくれました。当時小学生ぐらいだったしお金をくれたと言ってもたぶん1000円札1枚とかだったと思うのですが、子どもながらにほとほと困りました。「隠しとき!」とお金を隠したズボンのポケットにカモフラージュのためのティッシュを詰め込んでも無意味です。あんたなんやそのティッシュは、と言われるのが目に見えます。
僕はそのとき、親戚をかいがいしくお世話したわけではありません。もちろん車の送り迎えとかやったわけでもない。つまり「その親戚からお金をもらう理由」が1mmもなかったのです。だから僕はほとほと困りました。親にお金をもらったことをどう言えばいいのだろう。言ったら言ったで今度はその親戚に親がお礼を言う、という状況が待ち構えています。それも非常に申し訳ない思いになります。
なので、毎年「お正月」が軽く地獄でした。そう、お年玉の文化です。
僕は長いこと父方母方ともに最年少だった時期が長くて、そうなるとあらゆる親戚がポチ袋を僕にくれるわけです。しかもその中身は当時でいう漱石さん1人で済まないことが大半です。年に数度しか会わない親戚がびっくりすることに諭吉さんをポチ袋に忍ばせていたこともありました。
おっちゃん、その1万あったら高い肉でもなんでも食べれるやん。
確かにいただいたお年玉はきちんと使わせてもらいました。たとえばもう壊れちゃったけど、デジタル一眼レフとかお年玉の貯金で買いました。しかし、パッとポチ袋を覗いて、そこに諭吉さんの顔が見えた瞬間の申し訳なさ、「いいのだろうか」という気持ちは今でも忘れられません。だって本当に「何もしていないのに」1日で多額のお金が次々もらえるわけです。そんなことが許されていいのだろうか?と子どもながらに思っていました。
それがHSP(Highly Sensitive Person:とても敏感な人)の特性のひとつであることを知ったのは、『ささいなことにもすぐに「動揺」してしまうあなたへ。』を読んだその瞬間でした。まさに「お金について、そんなにたくさんもらってはいけないなどと罪悪感を持ちやすい」という、子どものころの僕そのまんまのことが書いてあったのです。その瞬間、すべてが腑に落ちました。これじゃないか、と。
たとえ諭吉さんをいただいても、「やったーーーー!!!!!」と喜ぶより前に「こんなもらっていいの・・・?」と心が痛くなったのは、別に不自然なことではなく、自分だけのことではなかったのです。10年前の僕に知らせてあげたかった。クラスメイトや親戚がお年玉をもらったことに喜んでるかもしれないけど、そうやって申し訳なさを感じてるのって実はお前だけじゃないんだぞ、って。
いまでは親戚に子どもが生まれ、お年玉をあげる立場にもなりました。あれだけお金をもらうのが苦手だった僕は、毎年お年玉を用意しています。まだ幼いので額は少なめですが、高校生のころは割と年の近い従兄姉からもお年玉をもらっていたので、そのときもらったものを今度は子どもたちに返すような、そんな気持ちでドラえもんのポチ袋を用意するのです。これも、大人になって変わった考え方のひとつかもしれません。