トロント、みっつめの仕事。そして帰国後。【前編】
1年過ごしたカナダから、帰国して程なく、私は東京都内の額縁屋でアルバイトを始めました。お客様から絵画や写真などの作品をお預かりして、額縁メーカーにサイズぴったりの額を発注、額装した状態でお客様にお返しする仕事です。
自分の人生に突如として現れた「額縁」という存在。これには理由があります。トロントでのワーキングホリデーの折り返し地点、最後にたどりついた仕事こそ、額縁屋でのバイトだったからです。
よく見つけたね、と感心されますが、始まりはとてもイージー。カナダ在住日本人向けサイトで、日本語での求人情報を見つけただけの話です。日本食料理店やカフェなどの求人情報が並ぶ中、『アート作品の額縁をつくる仕事です。アートに興味がある方はぜひ』と書かれたポストは異色でした。”鮮魚の倉庫”や”タイ料理のキッチン”など、これまで少し変わった仕事をしていた自分にはとても魅力的に見え、深く考えることもなく応募に進みました。
無事に面接を受けられることになり、初めてお店に伺いました。お店は、トロント市内の目抜き通りのひとつ、クイーンストリート沿いに居を構えていました。トロントは碁盤の目のように道がめぐっており、通りの一本一本がとても長いのが特徴です。東西に長く続くクイーンストリート、繁華街から東に数キロ離れた、落ち着いた高級住宅街に額縁屋はありました。お店の周りには、オーガニック食材を扱うおしゃれな八百屋や絶品のピザ屋、雰囲気のいいカフェや気の利いた雑貨屋、広い公園などが並び、散策にはもってこいの気持ちのいい場所でした。お店は武骨でシンプルなたたずまい。余計な言葉のない簡潔な看板に好感が持てます。ローカルな感じが素敵。
入店すると、まず目の前に接客用テーブルが置かれていて、それを隔てた先が、木材と作品とにあふれた工房になっていました。そこに日本人女性が一人働いていて、私に気づくと、過剰に歓迎するでも白い目で見るでもなく、フランクに地下に案内してくれました。狭い階段は人が1人が通れる幅で、薄暗く、右も左も額縁だらけ。最初見た時はその異様さに『二度と戻ってこれないかも』と思ったくらいです。地下は店主の部屋になっており、一貫してごちゃごちゃとしていました。キッチン、4人くらいで囲める丸テーブル、謎のスパイスやオブジェが並んだ棚、大きな油絵、天井からつるされたサンドバッグ、キングサイズのベッド。そのテーブルで、雰囲気物々しい店主がパイプをふかしていました。顔立ちは西洋風ですが瞳と髪は黒くぼさぼさ、全身真っ黒の装いで特徴的なだみ声。生粋のアーティストというような風貌で、部屋中彼のウィードの匂いでいっぱいでした。ただならぬ雰囲気の店主にギロッと見つめられ、私はまた『二度と戻ってこれないかも』と思いました。取って食われそうでした。何を言われるかと思いきや、開口一番「コーヒーでいいか」と意外にも優しい一言。案内してくれた日本人女性が、ハイハイという様子でコーヒーを淹れてくれました。この状況へのこなれ感、なんとカッコいいこと……。
「いつ来たの?」「いつ帰るの?」「トロントどう?」「ディッシュウォッシャーしてんの?今すぐ辞めな!搾取されるだけだぞ!」そこからは、面接というよりも世間話が続きました。履歴書は「読まねえからいらねえ」と断られました。2時間ほど話してようやく店主が「この仕事は世界一最高。試しに働いてみなよ」と一言。「日本人ばっかだから、分からないことはみんなに聞いてくれたらいい」と付け加えました。こうしてお店で働くことが決まりました。
チリ人の店主を筆頭に、お店には、彼を囲むように日本人女性若干名が在籍していました。日本人女性の真面目さを気に入り、あえてそんな布陣にしているそうです。面白いことに、そこにいたのはハンサムな日本人女性だらけでした。国際結婚をしてトロントに暮らす主婦や、長年暮らしている同世代が多く、皆さん英語が堪能でした。働きながら英語をたくさん教えてくれましたし、英語のレベルに関しても馬鹿にしない、ただひたすらにカッコいい人たち。少々威圧的で頑固なボスに対しても、大きな器で許せるし、時に自分の意志がはっきり伝えられる。臆病者で常にへらへらしてしまう自分にとって、こうなりたいと思えるような人が集まっていました。
バイト初日。作品を、額縁とガラスに閉じ込める額装作業の流れを見せてもらいました。その後コーヒーブレイク。お客さんが来て接客。お昼ご飯をみんなで作り、そのままみんなでお昼ご飯(ここにもびっくり)。食後のコーヒーブレイク。作業を少し見学し、またしてもコーヒーブレイク。
気が付けば、手を動かすよりも、休んでばかりです。これはカナダの文化というわけではなく、このお店だけの話のよう。店主によればこれがチリスタイルで、休憩時間をたっぷりつくることで、生産性が上がるのだとか。いやにしても。
楽な仕事と思いつつ、その日を終えるとなんともいえない疲れを感じました。オーナーがあまりにおしゃべりで、しかもどちらかと言えばお下品なネタばかりで、さらに同じ話を何度もしてくる。新鮮な相槌で、それに数時間付き合い続けなければいけません。先輩の1人が、「この仕事、ほんとは介護職だからさ」とつぶやいていました。初日にして、その店で働く本当の難しさを思い知りました。
(つづく)