第十一回読書会:古井由吉『杳子・妻隠』レポート
この本は2020年2月の永眠された古井先生へ、哀悼の意を示したく取り上げました。
1971年芥川賞受賞作、『杳子(ようこ)』を中心に振り返ってみます。
読書会でいつか必ず取り上げようと決めていた、思い入れのある作品です。
恋愛小説??再読してまったく違う印象になった作品
私が初めて『杳子(ようこ)』を読んだのは二十歳過ぎくらい。
ちょうど主人公たちと同い年くらいだったため、感情移入しやすく、感覚を極限までに研ぎ澄まされた筆致が忘れられない、群を抜いて繊細な恋愛小説として衝撃を受け、記憶に深く残っていました。
彼が杳子の病気に懸命に向き合い、格闘する愛の話……。
主人公たちの不器用なやり取りに、自分の体験を投影し読み込んだことを思い出します。
あれから○○年経ち(笑)、あらためて読んでみると、ただの恋愛小説では片づけられない、読み応えのある物語として立ちはだかってきました。
「読みづらい」「終着点がない」「棘がある」「想像するのが大変」参加者の率直な感想!
満を持して課題本として取り上げた、大好きな古井先生の作品でしたが、たしかにコテコテの私好みの純文学。
蓋を開けてみれば参加者も少なめで、読了できなかった人もいました(T_T)。
参加者から聞こえてくる感想もマイナス要素が強く、残念。
私は身体的感覚に訴える、類い稀なる表現力に一人で興奮していたのですが……
結局、ハッピーエンドなのか?
心に巣食う不気味な症状を認めたがらなかった杳子は、葛藤の中折り合いをつけ、最終的に病院へ行くことを決意します。
その少し前にやりとりされた彼との会話が印象的だった、との声もありました。
「健康になるってどういうこと」
「まわりの人を安心させるっていうことよ」
(古井由吉『杳子・妻隠』新潮文庫 P.133)
病院に行く決断をしたことが、前向きに社会と関わろうとしていて、健気で力強くハッピーエンドと私は当初は捉えていました。
しかしこれは本当にハッピーエンドなのか?と問いかける参加者がいました。
本人が病気でないと思っている以上、たしかに”治療”は周りの人を安心させるためだけの手段でしかないのです。
杳子が社会に屈してしまった、バッドエンドだとも読み取れます。
この意見が最後に述べる私の結論へと大きく寄与しました。
身体感覚に訴える繊細な表現力。三半規管が弱い人なら理解できる!?
私はとにかくこの作品の表現の素晴らしさに圧倒され興奮し、それは何度読んでも変わらないのですが、例えば、杳子が谷底で休憩しようと腰をおろしたとたんに動けなくなってしまった場面を引き合いにしてみましょう。
「岩に腰をおろして、灰色のひろがりの中に軀を沈めたとたんに、杳子はまわりの重みが自分のほうにじわじわと集まってくるのを感じて、思わずうずくまりこんでしまったという。実際に重みが自分の上にのしかかってきたわけではなかったけれど、周囲の岩が自分を中心にして、ふいに静まりかえった。谷底のところどころに、山の重みがそこで釣合いを取る場所があって、そんな一点に自分は何も知らずに腰をおろしてしまった。そう彼女はとっさに思った。」
「それから顔を上げて見まわすと、周囲の様子が変わっていた。河原の岩という岩が、一斉に流れ落ちる感じになった。どの岩も前と同じに静止しているのだけれど、静止していることが、かえって流れ落ちる感じの迫力を凄くした。」(古井由吉『杳子・妻隠』新潮文庫 P.15)
私は三半規管が弱いせいか、ふと平衡感覚をなくしてしまう何とも言えない気味の悪い感覚になることが稀にあり、その妙な感じを言葉で的確に表現されている、ととことん感動したのでした。
腰をおろすまでに杳子はゴロゴロと不安定な河原の石の上を歩いてきたのでしょうし、山登りで疲れきった三半規管が弱い人ならば、こうして平衡感覚に狂いがでてきてもおかしくありません。
不安定な足場の山の中ではなく、街中で杳子の症状は悪化していく ~計画的な都市構造の脆さを暴いた身体論的解釈~
建築家: クリストファー・アレグザンダーの論文『都市はツリーではない』の中で、ここは宅地、ここは集会場、こっちは公園……と計画を立てて街を形成していくゾーニングやコントロールのシステムは、実際に上手くいかないことを数学的に証明しています。
左側の図(a・b)が、自然に成長して出来上がった力強い社会「セミラティスモデル」。
多様な要素の集合を形成し、崩れにくいことを示しています。
右側(c・d)が人工的に作られたよそよそしい社会「ツリーモデル」。
計画的にゾーニングやコントロールされた街作りはこのようにツリー状になり、多様性や自由を抑圧し、脆く、その結果、憩いの場として作った公園が犯罪の温床となるなど、意図せざる結果を呼ぶことが立証されたのでした。
この図を見たとき、杳子の症状の解釈につながるのではと考えました。
実際に杳子が谷底で高所恐怖症を発症したと弁明する場面では、
「『谷底って高さの感じが集まるところではないかしら。高さの感じがひとつひとつの岩の中にまでこもっていて、入ってくる人間に敵意をもっているみたいな・・・・・・』」(古井由吉『杳子・妻隠』新潮文庫 P.31)
と谷底で不気味な高さを感じたことを吐露しています。
まさにこのツリーモデルにあてはめて考えられるのではないでしょうか。
いかにも不安定に造作される都市と、無骨だけれども力強さのある都市。
ツリーのてっぺんに立ったと想像すれば、”普通ではいられない”のはどちらかは明白です。
結論
山から帰ってきた二人は都会での生活に戻ります。杳子を「鍛えなおす」べく、「街なかの自然公園めぐり」を通して荒治療を開始します。
しかし症状を克服することはできません。方向感覚にもさらなる影響を与え、杳子の症状は益々悪化していきます。
平衡感覚の敏感な杳子は、山の中でさえ釣合いを取るために動けなくなってしまうのに、「街なかの自然公園」という不自然極まりない場所で、ツリーモデルによる都会の脆さの中で、精神の均衡を保っていられないのは至極当然でしょう。
都会生活における身体感覚が精神感覚に及ぼす総体的な状態を、見事に描いた作品といえるのではないでしょうか。
おかしいのは街であり環境であり、杳子ではない。
「杳子の裸体を目の前にしたとき、その思いがけない豊かさに彼は気押された」(古井由吉『杳子・妻隠』新潮文庫 P.70)
と豊かな肉体に恵まれながらも、それでも病院へ行かなければならない杳子は、計画的で不自然で抑圧された都市構造の犠牲者なのでした。
参考文献:『読むための理論-文学・思想・批評』石原千秋・木俣知史・小森陽一・島村輝・高橋修・高橋世織(世織書房)
2020年10月10日土曜日開催
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