ボクの愛する居酒屋は
その居酒屋は駅から離れた静かな住宅街にある。
ボクの住む駅から徒歩でおよそ20分。
わが家からはだいたい15分。
となりの下町的な駅からなら多分16,7分といった感じの距離感。
わが駅から都心へと向かうバス通りを行き、とある角で覗くと
ぼんやり光る赤ちょうちんが見える。そこが私が愛する居酒屋いや酒場だ。
今では住宅街にポツンと一軒あるだけだけど、話では、昔、通りを入った
所に銭湯があり、それを中心に電気屋、蕎麦屋、パン屋、和菓子屋など
数軒の店が集まって出来た一角だったそうだが、時の流れで店が少しずつ
閉じていく中、つい10年ほど前に銭湯が終い、唯一この居酒屋だけが
夜やっている店になり、暗い道に暖かみ溢れるあかりを灯している。
実はこの店、居酒屋好きにはなかなかの有名店で、テレビの居酒屋番組は
ほぼ全て制覇しているし、雑誌やブログでも良く紹介されている。
大将に「ここらあたりの有名酒場だよね」というと、
「な、こたぁねえよ。テレビに出ても忙しいのはほんのちょっとだしよ、
その後、何度もくるヤツなんかいやしねぇよ」
とキレッキレの江戸弁でたたみかけてくる。
もうお分かりだろうが、大将は浅草・吉原大門の隣で生まれ育った
パキパキの江戸っ子。実に聞いてて心地いい江戸弁なのだ。
若い方はご存じないだろうが、昭和の名人とうたわれる古今亭志ん生さんの
キレの良い江戸弁を思い出させるのですが、今では落語の噺の中でしか
聞くことがなくなった何とも聞き心地の良い江戸弁が特長です。
ちなみに先日、アレルギーでいろいろ食べられなくなったと伝えると、
「え~~っ、じゃ何喰ってんだよ」と暖かみ溢れるお言葉を頂戴しました。
言葉と言えば女将さんはボクのことを「あんた」と呼ぶ。
落語でかみさんが亭主を「ねえあんた」と呼ぶけどあの感じ。
ある時「南蛮漬け食べる?あんた好きだからね」と言われた時には、
江戸っ子ではないが東京生まれとして、「ああ東京に生まれて良かった」と新宿や六本木に行っても感じなかった思いを抱いたものでした。
ちなみに30年少し前、ボクが奥さんと結婚をするいあたり、どう呼び合うか
話し合ったとき、昔、酔った父親から「あんた」と呼ばれてから「あんた」と呼ばれるのが大嫌いになったそうで、「あんたと呼んだら離婚する」と
宣言された時の困惑とは全く逆の、とても素敵な響きの東京言葉です。
閑話休題。
この店は、確か始めて50年を越えている。
始めはお母さんと大将で始め、今は奥さんと二人でやっている。
忙しい時には娘さんや息子さんも手伝うことがあるけど普段は二人。
そこそこ席数もあるので大変だろうが、店はほぼ常連で占められているし、
手が早い(手際がいい)ので混乱はほぼないが、夫婦喧嘩はたまにある。
これも江戸っ子だ、パッとやってスパッと終わる。
もつ焼き屋なのでもつ焼きがとても旨いが、そりゃまあ当たり前。
とにかく何を食べても全部旨い。
ボクも色々な居酒屋を回ったけれど、ここはとびきり。
コスパで言えば焼酎のお湯割りを頼むと、中ジョッキでなみなみ出てくる。
2,3杯も呑めば十分だが、うっかり「もう十分」などと言おうものなら、
「何が十分だ、いくら飲んでも酔わねぇじゃねえか」
という返しが返ってくることは覚悟しておかなければいけません。
とにかく豊富なメニュー全てが絶品。
通常の居酒屋メニューにはじまり、白いボードに書かれたおすすめ、
お好み焼き的なものから、締めには大将手打ちの十割蕎麦まで、
毎回、もう少し胃が大きかったらもっと食えるのに・・・と思わされます。
特筆すべきはグラタンで、大将は有名ホテルで修行した強者、
ホワイトソースから自家製、そのくせ最後の仕上げはオーブントースターという代物ながら多くの女性客が注文する逸品です。
(オーダーではなく注文という言葉がこの店には似合うのです)
それに一品一品がちゃんと作られていて(当たり前のようでこれが難しい)
店によっては「これで一人前?」なんていう盛りの店もあるが、
この酒場ではちゃんとそれなりの量がある。
「これっぽっちしか出てこねえ店も多いけどよ、そんなんじゃ食った気に
なんねぇだろ」とのことです。
「この店で一番旨いのは?」と良く人から聞かれるのだけれど、
ボクがこの店で一番と思っているのは「ニラ玉」つまりニラの卵炒め。
強い火力でサッと炒められたシャキシャキのニラとフワフワの卵、
焼けたフライパンに回しかけられた醤油が香ばしい最高の逸品です。
ボクは洋食でも中華でも居酒屋でも、炒め物が旨い店は、良く手入れされた
フライパンや中華鍋の鉄の味がすると表現をするのですが、まさにそれ。
料理人の思いきりと経験に裏付けされた技術のたまもの、もうなかなか
食べることが出来なくなりつつある一品です。
大将に一度その話をしたことがありますが「そうかぁ?」で終了でした。
人ヨシ、酒ヨシ、肴ヨシのお店はこんな感じでいつも賑わっています。
そう言うと、
「おめぇが忙しい日に来てるだけで、いっつもヒマだよ」
という声が聞こえてきそうですが・・・。
江戸っ子の大きな特長は「含羞」。照れ屋ではにかみ屋。
だから返事は素っ気ない、いやぶっきらぼうですが、
決して怖くもありませんし、怒っているのでもありません。
ただの正しい江戸っ子です。
コロナ禍になってから行けてないのですが、先日偶然会ったとき、
サラッと「もういつまで出来んのか、わかんねぇよ」と言われました。
これまでずっと週一だった休みが週二になったり努力しているようですが、
まあ体と相談しながら、細々でいいので続けていってくれないかな?と
願っています。
「わかんねぇものは わかんねぇんだよ」
きっとこの一言で終わりだと思いますが、
これがこの酒場を愛する多くの人たちの思いでしょう。
これがボクの愛する類い希なる一軒と大スキな大将の話し。
そこは住宅街の一角にひっそり佇む、江戸弁と笑い声で満ちた酒場です。