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“妖怪”と“折り鶴”の美術館が共存する。小豆島「迷路のまち」

小豆島に2019年にオープンした「naoki onogawa museum」。
この美術館が小豆島「迷路のまち」に存在している意義や理由についてお話させていただきます。

迷路のまち アートプロジェクトのコンセプト

『神・人間・動物の関係は、ヨーロッパやアメリカでは垂直的かつ不可逆であり、それに対して日本では、円環的かつ可逆的である。このような差異は一神教であるキリスト教の秩序理念とちがった自然観、世界観が日本人の意識をながく支配して、今日にいたっているからである。』
(谷川健一「神・人間・動物」1986年(講談社学術文庫)より抜粋)

日本において、神と妖怪は、円環的かつ可逆的に行ったり来たりする存在です。土地の神であったヤマタノオロチは妖怪としてスサノオノミコトに退治されました。また、河童は元々は妖怪ですが土地によっては神様として祀られたりしています。これは古代より続くアニミズムをベースにした日本人の精神性の特徴です。

私たちアートプロジェクトMeiPAM(メイパム)が、「妖怪美術館」で展示する妖怪の造形作品群は、現代日本人の精神性を表象しているという点で、“現代の”日本文化の象徴ということができます。

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すなわち、これらの展示は、「アート」という世界共通の舞台において、
外国人に対しては、日本の“文化遺伝子”を直感的、娯楽的に伝えることができるし、日本人に対しては、自らが持つ“文化的DNA”を再認識してもらうことができる。このように自負しています。

そしてこれこそがMeiPAMの競争優位の源泉でありコンセプトの核となっています。

迷路のまちに共存する「妖怪」と「折り鶴」

世界が認める折り鶴アーティスト、小野川直樹の作品を“常時”観ることができるのは、アートプロジェクトMeiPAMが運営する「naoki onogawa museum」だけです。

オープンからこれまで、この折り鶴の美術館は、多くの鑑賞者を魅了してきました。ですが、妖怪美術館と折り鶴美術館とが一つのアートプロジェクトの中で展開されていることについて違和感を持たれている方もいらっしゃるのではないでしょうか?

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それに対する答えは、「なぜ小野川氏の作品によって人は感動するのか?」についての答えにもなっています。

千羽鶴に代表されるように、折り鶴にはいつの時代も人々の願いや祈りが籠められてきました。戦地に赴く若者のための祈り、青春をかけた甲子園での勝利に対する願い、重い病を克服しようとする友人の後押し、戦火に散った命の鎮魂と平和への祈り、こうした様々な場面で、鶴が折られてきました。

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小野川氏の作品を目の当たりにしたときにこみ上げる情動は、この折り鶴が極限の精緻さによって紡がれていることによって、膨大な魂の集積を高い解像度で捉えることができるからこそ得られる感動なのです。これは、折り鶴の意味合いを知っている人間だけが得られる感動であることは言うまでもありません。

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また、彼が若くして天より授かった精妙な指先からほとばしる技巧こそが、日本人の文化遺伝子そのものであり、日本人としては、そこに共鳴する部分もあるでしょう。盆栽とも見立てられる茎の一葉一葉に、膨大な数でありながら色や形、大きさ、さらにその向きまでも整然と配された鶴の造形は、優しい光を帯びながら、けだし、より直射的に日本人の心を照らします。

誰もいない美術館の静寂の中で過ごすとき、私は、折り鶴たちがその輝きを失うことなく、人々の祈りを呼び集めているようにみえるのです。

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小野川氏の作品は、日本の文化遺伝子を表象する造形である、という意味合いにおいて、アートプロジェクトMeiPAMのコンセプトと軌を一にしています。そしてこれこそが、迷路のまちにおいて、妖怪と折り鶴が共存する理由であり、大きな意義でもあります。

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陰としての妖怪、陽としての折り鶴

さらに、妖怪たちを「陰」とするならば、折り鶴たちを「陽」とするこができます。これらは日本人の精神性を正反対のベクトルによって表現する対照的な作品群ととらえることができます。「妖怪美術館」と「naoki onogawa museum」はこの対称性によって「迷路のまち」エリアの魅力に深みや幅を与え、相乗的に価値を増大させているのです。

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ぜひ小豆島「迷路のまち」に来ていただき、この世界観を味わっていただきたいと思っています。

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