「まち歩き観光」は非情である。
観光における「まち歩き」の目的はなんでしょう?
フランスの民俗学者クロード・レヴィ=ストロースの言葉を借りれば、「祖父伝来の、今も生き続ける迷信の細胞に似た蠢きを、顕微鏡の倍率を変えて浮かび上がる集団意識の膜を観察すること」にあると思われるのです。
ちょっと難解ですが、それはこのようにも言い換えられると思います。
「客体としての都市の中にある多様な主体(店をのぞいたり民家の街並みを眺めたり、職人の営みに触れたり地元民と交流することで得る事柄)を観察すること。」
観察の結果、旅人はその印象を自分なりに系統立てて、体系化をしていきます。
例えば、頭の中にはぼんやりと一つのキャンバスが浮かび上がってくるとしましょう。それは、この街がいかなる場所であるかを主観的に定義づける概念的なキャンバスです。旅人が観察した事柄の数々がパズルのピースとなって、キャンバスにちりばめられていきます。これらの経験は街を全て理解して説明するには十分ではないので、当然、ピースとピースとの間に、まだ空白部分が残る。旅人は、それまでの予備知識や自身の知識・経験と照らし合わせながら、演繹的にその空間を創造上のピースで埋めていきます。
こうした過程を経て、その街の風土や文化を探究し見極めること。自分なりの解釈によって「ここはこんな街だった」と一つの作品を創り上げる作業こそが、街歩き観光の魅力であると考えます。
このときのパズルのピースは、ストロースの言うように、一曲の交響曲の音符の一つ一つ、ということもできるし、一篇の詩の一語一語ということもできます。
あらゆる旅人が、その街を訪れ、個々に得られた経験によって、それぞれ全く異なる作品が頭の中に創り上げられるわけです。
そしてそれらは、“非情にも”その街に対する評価ともなるのです。
なぜ非情なのでしょうか?
それには二つの理由があります。
一つ目の理由は、
街歩きをする旅人の体験やその順番、偶発的な出来事などをコントロールするできる者は誰一人としていない、ということです。
どのようなピースをどの順番で旅人に与えれば、最も最良の(受け入れ側として理想的な印象を持ってもらうための)結果を得られるのか、誰も導くことができないのです。
例えば、街を代表する文化的スポットが定休日で見られなかったり、土地の風土を代表する通りが工事中で通れなかったり、そうした偶発的事象は物理的なものだけではありません。
たまたま機嫌の悪い店主が、旅人のオーダーの仕方に不備があったことに腹を立ててつっけんどんな態度をとったり、たまたますれ違った地元民が月末の請求について思い悩んでいたために、旅人に道を聞かれたことに気づかず、通り過ぎてしまう、などということが立て続けにおこることもあります。
そうした体験で得られるパズルのピースはきっと色褪せていて、その周囲に組み込むであろう想像上のピースに魅力を与えることはないでしょう。
そして二つ目の理由、
このパズルの完成形は、完全に旅人の主観でのみでしか創られない、ということです。
たった1日~2日(まだそれくらいであれば長い方で、普通は半日や数時間ということもある)の経験という、恐ろしいほど少ない材料によって、すべての評価を下さざるを得ないのです。これは旅人にとっても受け入れ側にとっても不幸なことです。さらには多くの旅人が自分のパズルを完成させ、その評価をインターネットによって拡散させてしまいます。
もし匿名で投稿された場合、色褪せたピースが全体のトーンを押し下げていることは想像に難くありません。
また、仮に記名によって投稿される場合、他人に対していかに自分の人生が充実しているか、をアピールするベクトルが働きますが、その種(たね)となる経験が乏しければ、それは困難な作業となります。
そしてこれらの情報は負の連鎖を生み出します。
すなわちそれが、別の新たな旅人の予備知識として共有・蓄積され、無意識のレベルにおいて、マイナスの偶発的事象に目線や注意がフォーカスされてしまう可能性があるのです。
この非情なまでのアンコントローラブルで挽回可能性の乏しい評価試験に、日々さらされている、というのが観光地としての街なのです。
なんと恐ろしいことでしょう。
もちろん、その反対で、きらきらと輝くピースを手に入れた旅人が素晴らしいレビューや紀行文を書いて表明してくれる可能性もあります。ですがいずれにしてもコントロールは不可能です。
巷には「まち歩き」を推奨するような取り組みがよくありますが、これほどまでにリスクがあることを十分承知の上で行っているとは到底思えません。かくいう私たちの「迷路のまち」もその点で大変苦労をしています。
これに対応する手段としては、例えば、旅人へのきめ細やかな情報提供、街の魅力にフォーカスしてもらえる環境の整備、地元民の意識の醸成、などが重要になることはいうまでもありません。ただ、親切すぎるのも、旅の趣を壊してしまうことになりかねないので、バランスが必要です。これについてはまた別の機会に述べたいと思います。
観光産業を担う者、まちづくりを担う者、そして(むしろこの人たちが最も重要だと思いますが)地権者は一つの重要な認識を持たなければなりません。
「街は公衆による芸術作品である」ということです。
どこから見ても、街が煌びやかなパズルであったり、情緒ある抒情詩であったり、はたまた壮大な交響曲になり得る、と自信を持てない限り、その街を「まち歩き観光」の対象とすることは一度立ち止まって考えるべき、そのように思うのです。
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