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小説指南書の研究(5.どう書くのか?~文体・比喩・結末)
5.どう書くのか?~文体と比喩
今回から、「どう書くのか」について見ていきます。最初の話題は、「文体」です。文体に大きな影響を及ぼす「比喩」と「結末」についても併せて見ていきます。
【文体】
「文体」とは何か? 広辞苑(第四版)を引いてみました。「①文章のスタイル。語彙・語法・修辞など、いかにもその作者らしい文章表現上の特色。②文章の様式。国文体・漢文体・洋文体または書簡体・叙事体・議論体など」三省堂国語辞典(第八版)では、「①文章の体裁/形式/様式。②その作品/作家に見られる、文章上での個性的な特色」新明解国語辞典(第八版)では「その時代(ジャンル)の文章に特有な表現形式。②その作者が素材を形象化するのに用いた表現法(の総体)。(狭義では、表現技術の上に見られる特徴を指す)
私には三省堂国語辞典の説明が最もしっくりきました。すなわち、①文章表現上の体裁、②作家固有の個性的な特色、です。①の方は、長文か短文か。ですます調か、である調か、だ調か。標準語か、大阪弁か、東北弁か、他の方言か、はたまた江戸弁か。体言止めを多用するか。形容詞や副詞を多用するか。こういった、純粋に表面上の体裁です。
①の意味では、谷崎潤一郎氏の『文章読本』(中公文庫)に「三.文章の上達法」の一節として「文体について」のタイトルで検証されています。それによると、文体は、一.講義体/二.兵語体/三.口上体/四.会話体、の四つに分類されるといいます。講義体は最も口語体に近いもの、兵語体は「である」の代わりに「であります」、「であった」の代わりに「でありました」となります。口上体は「あります」の代わりに「ございます」、「ありました」の代わりに「ございました」。会話体は、いわゆる口語体のことです。とても真面目に「文体」というものを定義づけていたのだとわかります。
一方、②の方は、第59回芥川賞を『年の残り』で受賞した丸谷才一氏が、『文章読本』(中公文庫)で「文章を書くにあたっての気取り方である」と表現しました。
『文章読本』は手記型の指南書に分類できますが、谷崎潤一郎氏(中公文庫)、三島由紀夫氏(中公文庫)、『新文章讀本』(タチバナ文芸文庫)として川端康成氏のものが有名で、読まれた方も多いでしょう。もうひとつ、二十人の有名作家の文章や質疑応答をまとめたがあります。
1988年に福武書店から刊行され、2020年に吉行淳之介選、日本ペンクラブ編として中公文庫から出版されました。この中に、選者である吉行淳之介自身が、「『文章』と『文体』」のタイトルでエッセイを書いており、「昭和三十三年の末ごろ、一応自分の文体ができた」との記述があります。残念ながら、どのように自覚したのか詳細が書かれていませんが、ともかく、文体というものが、小説家自身が自覚しうるものなのだ、ということがわかります。
1962年に文藝春秋社から刊行された大岡昇平著『現代小説作法』(ちくま学芸文庫)は、一章を「文体について」に割いています。フランスの博物学者ビュホンの言葉として、「文体は人間そのものである、だから文体は、持ち上げ、運び、変質させることは出来ない」や、小説家・江藤淳氏の「文体は作家の行動の軌跡である」といった言葉を紹介しています。
日本推理作家協会編著の『ミステリーの書き方』(幻冬舎)に、北方謙三氏の「文体について」と題したインタビューが収録されています。エンタテイメントに転向する前は、純文学作家としてヘミングウェイの文体に影響されたといいます。「余計な説明がなくて、本当に描写だけ」の『われらの時代』という短編集が一番いいとのことです。エンタテイメントに転向してからも、基本的に文体は同じだそうです。
変わったところでは、アメリカ探偵作家クラブ著、ローレンス・トリート編、大出健訳の『ミステリーの書き方』(講談社文庫)をご紹介しておきます。日本版と同じタイトルで、複数の作家がテーマを分担しているところも同じですが、日本版が2010年刊行だったのに対して、こちらは1976年の刊行です。
この本の中に、アーロン・マーク・スタイン氏が「文体について」というエッセイを寄せています。作家の文体が有効であるためには、①自分自身にとって自然であること、②想定読者に受け入れられる文体であること、③作家が伝えようとする内容にあった文体であること、と説明しますが、今ひとつ、その内容について説明が欲しいところです。
筒井康隆氏は『創作の極意と掟』(講談社文庫)で「凄み」や「色気」といった感覚的な言葉で文体が放つ特徴を説明しています。一方、がっぷり四つに組んで文体に取り組んだのが、三島由紀夫氏です。
『小説読本』(中公文庫)所収の「私の小説の方法」(1954年)や「自己改造の試み」(1956年)には、三島氏の文体に関する解釈や姿勢が述べられています。「小説は文体によって世界と対決するから、おのずから彼が一生に書く小説の主題は、すべて文体の問題に含まれてくるわけである」という「私の小説の方法」に書かれた一文からは、花村萬月氏が『たった独りの――』で説いた「根源的な主題」があってこそ滲み出るのが文体なのだろうとわかります。
また、「自己改造の試み」では、三島氏自身が1940年の『彩絵硝子(だみえガラス)』から1956年の『金閣寺』までの九作を並べ、十七年間の文体の変遷を解説しており、実に興味深いものです。これを読むと、三島氏がいかに森鴎外氏の影響を受けていたのか、よくわかります。逆に、文体は「根源的な主題」があれば自然とできあがるものではなく、自ら意図して作り上げていくものだともわかります。
宮原昭夫氏は『書く人はここで躓く!』(河出書房新社)で、「究極の散文から究極の詩までの間のライン上のどこかしらに位置するわけですが、(中略)その位置の違いが、それぞれの文体の違いになる」と書いています。
さて、自分の文体をどうするか?
恥ずかしながら、本稿を書きながら、もっと文体について意識してくればよかったと反省しています。行き当たりばったりで、筆の、いや、キーボードを指の叩くに任せていました。その結果、気取りのない、いい換えれば「つまらない」文章になっていたように思います。
男性的で骨ばった文章なのか、女性的でしなやかな文章なのか。ドライなハードボイルドなのか、ウェットなソフトボイルドなのか。「ボレロ」調なのか、「月の光」調なのか。森鴎外氏に寄せるのか、川端康成氏に寄せるのか。そういった意識のないままに書いた文章は、「できるだけ副詞や形容詞を廃し、美文調を避け、肩の力を抜いて淡々と言葉を紡ぐ」という、要するに、ある意味、流行りの文章であり、個性のないものでした。
インターネットやスマホが普及して、大量の情報を処理する読者サイドの要求がそうさせるのでしょうか。作者自身が、そういった文章作法に普段から慣れ親しみ、淡々と言葉を重ねるスタイルがすっかり定着したのかもしれません。何より、文章はスッキリさせよ、と指南書が説いてきたのは事実です。川端康成氏や谷崎潤一朗氏の時代から、「書き過ぎるな!」でした。
ル=グウィン氏の『文体の舵をとれ』(フィルムアート社)を手に取ったとき、英語で書かれた文体の解説書は、いくらいい翻訳であっても本当に理解するのは困難だろう、と半ば諦めた気持ちを抱いていました。ところが、次の一文を読んだとき、日本語も英語も似たような状況なのだと判り、「そうだ!」と心の中で叫んでしまいました。
「児童たちにわかりやすい文を書かせようとする教師も、〈無色透明〉な文体という持論で書かせようとする文章教本も、自作の突飛なルールや固定観念で書かせようとする記者も、バンバシッという乱闘好きのサスペンス作家も――どいつもこいつも、短い文だけがいい文章なのだという思い込みを、おおぜいの人の頭に詰め込む後押しばかりしてくる」
小学生のときに初めて学級新聞を作ったときには、さすがに意識していませんでしたが、高校時代、大学時代と、学生新聞の編集に携わってからというもの、短い文を繋ぐということは「常識」であり、染みついていました。就職してから書く業務用の文章はもちろんそうです。短い文章を繋ぐことは読む人の読解力に頼らず、あたかもテロップを流すように物事を伝えられます。情報として何かを発信するには、短文こそが便利なのです。それが、小説という、本来、文章そのものを味わって然るべき世界をも蹂躙してしまった。これは、私自身に対する叱責です。
もちろん、それは長文だから良い、という意味ではありません。文学雑誌にやたら長文が連続する作品が載ることがあります。意図的にやっていると判るから、「よっしゃ。頑張れ!」とこちらも気合いを入れて読むのですが、息切れして途中で投げ出しすこともあります。
こちらがすっかり短文に毒されていて、長い文章に対する耐性がなくなっているのかもしれません。あるいは、ル=グウィン氏の言葉を借りれば、「むしろ人は、書くときよりも話すときに、文をだらだらと連結しがちである」という弊害に陥った文章だから、なのかもしれません。ともかく、延々と切れ目のない愚痴や噂話を聞かされるのは拷問です。それを文字として読んで理解するのはさらに苦痛です。長文を書くのであれば、読者の恍惚感を呼び覚ます力が必要なのだと思います。
「文の長さに最適はない。変化に富むのが最適だ」とル=グウィン氏は書いています。「いい文体において文の長さは、前後の文との対比や相互作用(と言わんとすること、やろうとすること)から決まってくる」。心地よいリズムを自然に奏でたいものです。
川端康成氏も『新文章讀本』にこう書いています。「短いセンテンスは時として色も匂いもない。粗略単調な文章となる危険を持つ。性急で、無味乾燥な文章となれば、そこに詩魂も枯れ、空想の翼も折れるであろう。反面、長いセンテンスは、徒らに冗長に失してその頂点を見失うことが多い」。
これから小説の読者がSNS世代に入れ替わっていけばいくほど、文章の役割は情報を伝えるという原始時代の本来的な役割に先祖返りしていくのかもしれません。もはや散文に芸術性など誰も求めず、言葉は短縮されてグループ内に通じるアブリビエイション化が進み、比喩や形容詞を廃した無駄のないスッキリした文章で効率的に情報を伝達する物語へと、「小説」は進化を遂げるのかもしれません。もはや、作家に個性は求められず、お気に入りのキャラクターをインプットしてジャンルを選択すればAIが「小説」をスマホに表示し、必要ならアニメ化してくれる時代はすぐ目の前まできているかもしれません。
そんな没個性だらけなメインストリームに抵抗する小説家は、おそらく、まだ少なくないのだと思います。文体から個性が滲み出るような、丸谷才一氏が教えるところの「気取り」をまとい、筒井康隆氏が説く「凄み」や「色気」がムンムンとした作品に出逢いたいものです。
最後に保坂和志氏の見解をご紹介します。『書きあぐねている人のための小説入門』(中公文庫)の中で、「風景を書くことで文体は生まれる」と保坂氏は主張します。「何を書いて何を書かないかの取捨選択がなされていて、その抜き出した風景をどういう風に並べると風景として再現されるかという出力の運動(これが直列にする作業だ)に基づいて書かれている」「これが文体の発生であって、私の考えでは、文体というのはこの作業の痕跡のことでしかない」。
表面的な文章を文体というのであれば、「それは花そのものでなく花の絵を見て花を描くという子供の絵の域をでない」「いかにも自然に見えるものの中に含まれている不自然さ=強引さが、小説家の身体性の反映であり、それが文体なのだ」。難しいですね。しかし、間を置いて何度か読み直すと、不思議なもので、ふっと肚に落ちてきます。
「風景の何をどう書くか」という中身のための書き方が文体となる。風景を書くことで書き手は鍛えられると保坂氏は訴えます。ぺらぺらの風景描写ではなく、厚みをもった風景を描こうと努力することで書き手は成長できるというのは真理でしょう。
【比喩】
文体に大きく影響するものとして、比喩の使い方があります。
丸谷才一氏は『文章読本』の「第九章 文体とレトリック」で、シェイクスピアの『ハムレット』や大岡昇平氏の『野火』に例を引きながら比喩について詳しく検討しています。文体に必要なのは装うという心意気と、装う力だといいつつ、同じ章の中でレトリックを論じているのは、レトリックが文章を「気取る」ための重要な手段だからなのでしょう。
一方、花村萬月氏は🔰『たった独りのための小説教室』(集英社)で「比喩について」のタイトルで四章分を使い解説しています。この中で、花村氏は比喩に距離を置いている、としています。「比喩というものは純度の高い抽象にではなく、この捨象のなかに含まれ、隠れている」というのです。「捨象」とは、抽象化されるときに棄てられる部分です。
難解な文章ですが、心象を言葉にすれば、その瞬間、言葉にしているのは概念に過ぎず、本当の心象は言葉になってはいない、ということでしょうか。比喩を用いて心象を伝えようともがけばもがくほど、伝えたい心象は遠ざかってしまい、全く別の心象を与えてしまうリスクを説いているように思えます。
「まず比喩をへらす。不要な比喩は絶対に用いない」と花村氏は書きます。それだけ、比喩は使い方が難しいということでしょう。私たちもリスクを避けるために、それに倣うべきでしょうか?
保坂和志氏は『書きあぐねている人の――』で比喩について、こう書いています。「比喩を使ったフレーズには、『文学的な気分』はあっても、『文学』はない。そういう『文学的な気分』=修辞、装飾を取り払ってもなお残るものが『文学』なのだ」。なんだか「米は炊かずに食え」といわれているような違和感です。
現代作家のスッキリした文章の原因は、ひょっとしたら比喩を排除しているからでしょうか。一方で、花村氏はこうも書いています。「小説家の仕事は言語(行間を含む)を用いて読み手の脳裏に伝達的論理だけでなく、鮮やかな絵を描くことなのです」。比喩とは、そのための手段であるように思えるのですが。
「比喩は読んで嬉しく、書いて楽しい小説の隠し味である。穿った比喩は人混みで昔馴染み出逢ったような感悦を誘う。レストランと洞窟、鏡と蜃気楼など、およそ無関係な次章を比較対象とすることで、それまでにはなかった新鮮な目で物を見るようになるところが比喩の効用である」。これは、『小説作法』にあるスティーブン・キング氏の言葉です。米は炊いて食うのがうまい、とアメリカ人にいってもらえたような安堵を覚えます。
確かに直喩の連発は見苦しい。反面、気の利いた換喩やリズミカルな反復に出会ったとき、読書の喜びを私は見出します。筒井氏がいう「凄み」や「色気」を出すひとつの方法として、比喩があるのだろうと思っています。小説とは自由なものですから、炊かない米の方が歯ごたえがあって口に合う若者もいれば、噛まずに呑み込める雑炊が有り難い老人もいる、ということでしょう。
日本語学者で日本語に関する多くの著作のある中村明氏は、『日本語の作法』(青土社)に「陳腐な比喩は別にして、少なくとも創造的な比喩と呼ばれる表現は、発見的認識を運ぶ、新しいものの見方の開拓である」と記しています。比喩だからいいとか悪いとか、そういう問題ではなさそうです。比喩を使うのであれば、それは「陳腐な比喩」ではなく、「創造的な比喩」と呼ばれるものでなくてはならない。そうでなければ、炊かずに米を食うどころか、泥水で米を炊いてしまうということになるのでしょう。
【結末】
結末とは、「オチ」の意味で使っています。この「オチ」をどうするか、によって、文体の印象は大きく異なってくるように思えます。エンタテイメントと文芸で考え方が大きく異なるのが「結末」かもしれません。丹羽文雄氏は『小説作法』(講談社文庫)で「太宰治はオチをつけた。これは、邪道と考えてよろしい」と手厳しい。オチをつけようという考え方は、散文芸術には禁物である。そんなものを排斥するのが、散文精神である」と断じます。
花村萬月氏は、🔰『たった独りの――』に「小説にオチはいらない」の一章を設けています。その本意は、「いままで描いてきた詩情を最後の最後で殺してしまうくらいなら、むりやり流れを断ち切る必要はない」というところにあります。「本を閉じた読者に、無限の余韻を与えることができる。理想的ですね」には、まさに、「読者の想像力を刺激する」に通じるものがあります。
保坂和志氏の小説にはオチがないそうです。その理由を『書きあぐねた人の――』でこう説明しています。「小説というものが、現実から離れてフィクションとして括られてはいけないと思っているから。結末で読者にカタルシスを与えてしまっては、小説はフィクションとしてそこで終わって(閉じて)しまう」。保坂氏は、小説を「〝開いたまま“終わりたいのだ」といいます。これは花村氏の言葉と同じ意味でしょうし、読者の想像力を刺激するという芸術性に関わってくる部分ではないかと、個人的に考えているところです。
どうやら、文芸系でオチをつけるべし、と説く指南書はなさそうです。中村明氏の『日本語の作法』に吉行淳之介氏の言葉を紹介しています。「短編で一番いけないのは、ストンと落ちがついて終わるもの」で、それは作者の衰弱だ、とまで強調したそうです。「さりとて曖昧にぼかしてもいけない」し、「わざと終わりを削って」断絶感を出そうとするのは「邪道」だそうです。「一回ギュッと締めて、パッと広がして終わらす」そうです。それは「フワッと放して膨らます感じ」で、「明晰な広がりでなくっちゃいけない」といいます。
一方、エンタテイメント、特にミステリにとって、「結末」は文芸とは全く異なる重要なものになっています。日本推理作家協会編著の『ミステリーの書き方』で、逢坂剛氏は「どんでん返し――いかに読者を誤導するか」のタイトルで一文を書いています。「ミステリは体操と同じで、着地を誤ると、それまでどんなによくてもまずくなる」といいます。ミステリにせよホラーにせよ、最後に与えられるショックが大きければ大きいほど作品を読んだ満足感は満たされるものです。
平山瑞穂氏は、🔰『エンタメ小説家の失敗学』(光文社新書)に「オチのない物語にしてはならない」と一章を設け、自身の失敗談を語っています。読者に明確なオチが伝わらない作品は読んでもらえないと力を込めています。「1.小説とは何か?」で触れた想像力と芸術の関係性が、エンタテイメント小説と文芸との違いに明確に現れるのが「オチ」の部分なのでしょう。
次回は引き続き「5.どう書くのか?」の話題です。「人称と視点・描写・会話・推敲」について見てきます。お楽しみに。12月14日(土)の更新予定です。
「5.どう書くのか?(文体・比喩・結末)」で扱った小説指南書は以下のとおりです。
〈文芸系〉
・小説家・手記型:丸谷才一著『文章読本』(中公文庫)
・小説家・手記型:谷崎潤一郎著『文章読本』(中公文庫)、
・小説家・手記型:三島由紀夫著『文章読本』(中公文庫)、
・小説家・手記型:川端康成著『新文章讀本』(タチバナ文芸文庫)
・小説家・手記型:吉行淳之介選、日本ペンクラブ編『文章読本』(福武書店)
・小説家・全体講義型:大岡昇平著『現代小説作法』(ちくま学芸文庫)
・小説家・手記型:筒井康隆著『創作の極意と掟』(講談社文庫)
・小説家・手記型:三島由紀夫著『小説読本』(中公文庫)
・小s津か・選択講義型:宮原昭夫著『書く人はここで躓く!』(河出書房新社)
・小説家・選択講義型:保坂和志氏著『書きあぐねている人のための小説入門』(中公文庫)
小説家・選択講義型:花村萬月著🔰『たった独りのための小説教室』(集英社)
・小説家・全体講義型:丹羽文雄著『小説作法』(講談社文庫)
〈エンタテイメント系〉
小説家・選択講義型:アーシュラ・K・ル=グウィン著『文体の舵をとれ』(大久保ゆうこ訳・フィルムアート社)
・小説家・手記型:平山瑞穂著🔰『エンタメ小説家の失敗学』(光文社新書)
〈エンタテイメント(ミステリ・サスペンス)系〉
・複数小説家・全体講義型:日本推理作家協会編著『ミステリーの書き方』(幻冬舎)
・複数小説家・全体講義型:アメリカ探偵作家クラブ著、ローレンス・トリート編、大出健訳『ミステリーの書き方』(講談社文庫)
・編集者等・選択講義型:佐藤誠一郎著『あなたの小説にはたくらみがない』(新潮新書)
〈参考書籍〉
◎中村明著『日本語の作法』(青土社)
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