一篇の詩を書きながら、完成するまでの工程を言語化してみよう

まず、頭のなかに、「乳白色の闘争」という言葉が浮かんだ。この言葉に、後付けの感情が湧いてきて、「乳白色」という語句の「乳」の「nyuu」というマシマロを人差し指で押してゆくような音が良いと思った。それに比べて、「闘争」という語句の、視覚的なイメージに比べて、発音は「toso」と、朝の新宿三丁目の丸の内線の改札口をゆくサラリーマンの足取りのようにあっさりとしている、ところも良い。
次に、「三宿の火花はまだ咲いていたのか」という言葉が浮かんだ。谷底の渋谷から、246号線がアップダウンを繰り返す。大橋の目黒川、池尻と来て、やがて三宿に来ると、ようやく土地の高低が落ち着いてくる。この落ち着きと、視覚的な人を休める宿が三軒あるという「三宿」という言葉、そして「mishuku」というときの、口をすぼめるような、何かを味噌蔵に隠蔽しているような、この音が良い。ただ、「乳白色の闘争/三宿の火花はまだ咲いていたのか」と並べると、「闘争」と「火花」の語句の連関はありきたりで、つまらない。
ここで、エミリー・ディキンソンを思い出す。なにかを引っ掻くような音、ややもするとノイズのような音を入れようと思う。コピー機の故障時の、あの掠れたインクによる文字の乱れ。透けて見える文字ではない文字、これを入れてみようと思った。
色々考えて、「乳白色の闘争/三宿の車夫は、火、いまだならずして美しいと思う」と改めた。「車夫」の「sha」という音、「写譜」という意味もつれてくる。「思う」という主体は、(明示されなくとも)「私」のことで、ここに読み手との共犯関係が構築されてゆく。
ここで、アントナン・アルトーを思い出す。右手や左手、くるぶし、かかとを移りゆく太陽に向ける、それだけの1日のことを考えてみる。そこで、
「乳白色の闘争/三宿の車夫は、火、いまだならずして美しいと思う/くるぶしを持たず、かかとに至る/下北沢の明るさのなかへ向かう」というように続けた。三宿から三軒茶屋へ行き、茶沢通りを下北沢に向かってゆく。この時間軸の流れと、読み手の時間の操作あるいは共犯をどこまで繋げるか(切り離せるか)、がここからの課題となる。
ここで、新宿御苑のベンチに座り、ドラムマシンTR909のキックの音だけを聴いていた日のことを思い出す。ハイハットもスネアもない、キックだけの音を聴いていると、何かを足したくなる。けれど、何かを足すということは、何かを消したり見えにくくすることになる。足すのではなく、もとからそこにあったものをそのまま表すことができれば良いと思う。見えているものを描くのではなく、そこにあるものを(見えていても、見えていなくても)そのまま描けば良いと思った。
ここで、テイ・トウワが、サウンドレコーディングマガジンのインタビューで、サンプリングだけではなく人間による生のフレーズを入れると言っていたことを思い出す。確か、筋肉ということばを使って、生身の人間によるフレーズのことを言っていた。
ここで、一度録音したシンセサイザーの音をスピーカーから出して、それを再度録音することによって、劣化させることを考えた。それは掠れを生むことでもあるし、奥行きを生むことにもなる。そろばん塾にいて足し算をしている中で一人だけ引き算をしているような、不思議なことになる。
ここで、「乳白色の闘争/三宿の車夫は、火、いまだならずして美しいと思う/くるぶしを持たず、かかとに至る/下北沢の明るさのなかへ向かう/葉は広く/葉のことを告げる/ありきたりの脳髄を蹴散らす」という詩篇に至る。「葉は甘く」のほうが良いかと思ったが、味覚的な甘さではなく、いわゆる光のこと、光量の多寡を伝えるのに、「甘い」では文字通り甘くなってしまう。ここは敢えて「広く」に留めておいて、次の行で意味を拡張した方がよいと思った。「ありきたりの脳髄を蹴散らす」は、まあ、単調なフレーズではあるけれど、やや落ち着きのあり座りのある言葉をここに置くことで、中間部が広がりのあることになるかと思う、が、再考の余地ありか。


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