「やめる」選択が自分をつくっていく。
苦しい。
辛い。
不安だ。
居心地が悪い。
恥ずかしい。
疲れた。
こんな心情に頭が支配される日々をつづけるか、やめるか。
僕はこれまでおおむね「やめる」方を選んできた。
今のところ後悔したことはありません。
なんでもすぐに楽な方へ、低きへ流れるような選択をすることは、人間としての成長ができない。
そんな言説をよく目にします。
この考え方は正しくも間違ってもいて、成長できるかどうかの要点は「やめること」についてどれだけ深く検証しているかどうか、によるのではないかと思います。
深く検証された結論としての「やめる」はむしろ自分を成長させる起爆剤になる。
これまで自分が「やめる」を選択した場面では、こんな選択をすること自体が嫌で嫌でたまらない、いっそのこと、工事現場の横をうろうろと往来して上から降ってきた鉄骨に敷かれて死んでしまわないかな。と妄想するくらい悩んでいました。
それでも選択しなければならないのが人生。
今日のランチに何を食べるのか。
ふらり立ち寄った場末のスナックで歌の上手い常連客の次に何を歌うのか。
同窓会でファミコンのカセットを借りパクしてしまった竹馬の友に謝るのか、忘れているだろうとダンマリを決め込むのか。
些細な選択の積み重ねで人が形成されていく。
そんな選択の連続の人生で一番重要なのが「やめるかどうか」の選択肢だと思います。
前述したやめることへの深い検証とは、やめる選択の先に何があるのか、具体的に述べられる状態にあるかどうかを指します。
ただやめるのではなく、やめた後自分はどうなるのか。どうしたいのか。
やめたい原因を取り除いたその先のビジョンはあるのか。
そこまで深く悩み抜いた結果の「やめる」ならば、それは未来につながる最高の選択になるはずです。
弓の弦をキリキリと引いて、矢を飛ばす力を溜めている。
持ちうる最大の力で張力に対抗している。
「我慢している」時間。
的に狙いを定める。
もうちょっと右か。
いや、的は通過点だと思ってぼんやり眺めて、その先に輝く点を探すのか。「悩んでいる」時間。
そして弦を解放する。
矢は弦に蓄えた強大な力をつかって、狙いを定めた先へと飛んでいく。
「やめた!」を実行した時。
心も体も一気に解放されて清々しい気持ちになり、次へのステップに進めた自分を誇らしく思い、ワクワクする時間。
弦を解放する前の二つの工程があって初めて矢を飛ばすことができる。
これらの工程が「やめる」ことに対する深い検証という訳です。
何も悩まず目標も定めずに、ただ「もういいや」とやめることとは全く違うと思いませんか?
矢を飛ばした後は、また弦を引いて力を貯める時間が必要なので、すぐに第二の矢を飛ばすことはできません。
というより、そんなに頻繁に深い悩みが訪れることはないはずです。
人生において、やりたいことが小さい時から見つかった人であっても、きっとどこかのタイミングでその先に悩むことはあるはずです。
逆にいつまで経ってもやりたいことが見つからずに悩む人もいます。
僕は小さい頃に親の影響で建築家を志しましたが、その道の途中で何度も壁に当たってきました。
本当にこの道があっているのか、才能がないのでは、こんなにしんどいと思うなら向いてないのではないか。などなど。
その時々に悩み考え、自分にできないことをやめる選択をしてきました。
そんな選択を実行するたびに、自分の輪郭が形づくられてきたように感じています。
やめてきたことで形成された自分は、歳を重ねるほどに面白く見えてきました。
今現在も「やめたいこと」がたくさんある。
何をやめて、何をやるか。
悩みはおそらく一生尽きることはないけれども、その過程自体を楽しんで、死ぬまでやりたいことを突き詰めたいと思います。