見出し画像

幸せの形について


たった1人でもいい。たまたまこれを見た誰かが、何かを感じるきっかけになってくれれば、嬉しい。そんな思いで、文章を書きたいと思う。

私もこれまで、幸せについてこれでもかというほど考えてきた。
それは、お金なのか?安定なのか?高級車?大きい家?考えれば考えるだけ、正解のないものだとつくづく思う。
正解は人それぞれ。
十人いれば十通りの幸せの在り方がある。
だからといって考える意味がないと言っている訳ではない。
自分の思う幸せの形について、核心を探ってみるのは物凄く大切な事である。
幸せになりたいと漠然と思っていても、自分が何に幸せを感じるのか、自分自身が理解出来ていなければ、その願いは空虚のままだ。
そして、まず大前提として知るべきは、幸せは手に入れるものではなく、感じるものであるということ。
いくら幸せについて考えて、行動をしても、手に入れられるものではない。
私たちは、この正解のない問いに自分なりの答えを求め、手に入れようとし続ける。
今、私たちが出来ることは、この瞬間だって幸せだという事に気付くことではないか。
それが、第一歩なのではないか。

幸せの根幹

多種多様な幸せの在り方があるが、幸福の根幹として、科学的に証明されているものがある。それは『人との深い関わり合いがどれだけあるか』という事だ。つまりそれは、愛し合い、信頼のおける人間の多さだ。幸せの根幹がそれならば、冒頭に述べた『お金』や『安定』『高級車』『大きい家』など、これらは全て枝葉という事だ。

幸せについて考える上で『愛する』ということの大切さは、あらゆる哲学書や名著にも書かれている。人間にとって、どれだけ愛が大切なのかがわかる。“幸せ”について語る上で、“愛”は、切っても切り離せないものなのだ。しかし、哲学するのはここで終わりではない。そこから更に哲学し、愛について考えたい。

『愛』について

愛について、前提として知っておきたいのは、愛とは受動的なものではなく、能動的なものという事だ。わかりやすくいえば、愛のベクトルは相手から自分ではなく、常に自分から相手、という事だ。愛されたいではなく愛したいが正解だ。愛されたいと願っても、愛するか愛さないかは、相手が決める事。相手が愛してくれるようにと願うのは、相手のコントロールにもなりうるため、注意しなくてはいけない。

キーワードは感謝

“愛”とは、心から自然と湧き出してくるものだ。愛さなくてはいけないと思う心に、愛はない。それでは、どのような心が愛する動機になるのか。それは『感謝』であると、私は思う。ここで気を付けなくてはいけないのは、『感謝』も愛と同じで、感謝しなくてはいけないものではなく、自然と湧き出るものであるという事だ。この世界において、本質的にやらねばならぬ事など一つとして存在しない。

〇〇しなくてはならないから、〇〇したいへ。

〇〇してほしい、〇〇するべきだ、〇〇しなくてはいけない、そういった考え持っている人は、考え方の根本を見直してもいいかもしれない。何故なら、気付くことで、その思いは自然と湧き出してくるものであって、無理矢理に思おうとしても、思えないものだからだ。思いたいのに思えないというギャップが、ズレを生じさせるのだ。

心を動かすテクニックは、気付く事と、味わう事。

ただただ“有難い”と感じた、その自分の気持ちに気付く事が大切である。その“有難い”と感じた心に感謝する余地が生まれ、“愛”が心から自然と湧き出る。まずは、ただただ気付く事。そして、それを味わう事だ。そして、その愛する心が“何か出来る事をしたい”と思う行動の動機になる。

愛する対象とは、近くにいる人だけが対象ではない。家族や友達、会社の同僚、ペットなどに留まらず、地域、日本、自然、世界、地球、宇宙…。その対象が大きさに限りはない。

『愛』と『知』が器の大きさ

しかし、愛だけではまだ足りない。究極の幸せについて語る上で、もう一つ欠かせない事がある。それは“知”だ。愛を深めて、知を磨く事が、究極の幸せには欠かせない。“知識”の知でもあり、“知恵”の知でもある。仏教的には“智慧”とも書く。損得の判断をおこなうのが“知恵”に対して、物事の真偽、善悪を見抜く力が“智慧”だ。ここではまとめて“知恵”と書かせてもらう。

何故、“知”が必要なのか。それは、愛すべき対象に対して、良かれと思って行った事が、実は本質的にはそのものの為になっていないばかりか、苦しめてしまうという例があるからだ。それは、身近な事でも起こりうる。例えば、自分の子供を愛しているからといって、やたらめったらに与えすぎても、もしかしたら本質的に子供のためにはならないかもしれない。与える事が、子供にとってどのような影響を及ぼすのかを、知らなくてはならない。また、大きい規模で例えれば、アフリカの難民に要らなくなった衣服を送るという活動が、社会問題になっているという事実もある。服に困っている人がいるから、与えたいという、愛情から起こした行動だとすれば、その心自体はとても素敵であるが、その人の“知”の無さが社会的な問題さえ生んでしまっているのだ。つまり、“知”がないと、どちらも望まない愛の形にさえなってしまう。知のない愛は、独りよがりの愛になってしまう可能性が極めて高いという事だ。

グローバル社会が、与える影響を見えなくしている

その理由として、世界がグローバル化している事が大きな要因として挙げられる。ひとつの行動が、どこでどのような形となって影響を与えてしまうのか、その全てを把握する事は、もはやできなくなっている。小さなコミュニティであれば、1人の行動が、どのようにそのコミュニティに影響を与えたのかは、明確にわかるかもしれない。しかし、大きくなりすぎた社会において、全てを理解する事は誰にもできない。出来れていれば、社会問題など存在していないはずだ。

今日の世界は、地球上の全てが密接に繋がりあい、関わっている。良い部分を切り取れば、我々はグローバル社会の恩恵を受けて、豊かな生活を送っているという事実がある。しかし、その裏では、挙げられないほどの数の問題点も当然ある。グローバル社会の恩恵を受けている人間が、グローバル社会が作り出している多くの問題から目を背ける事は、道理に反していると言ってもおかしくはない。何故なら、現代はグローバル社会であり、且つ、多くの国が民主主義という体制をとっているからだ。民が政治を決めているという事は、責任も民にあるのは当然だ。

先ほども述べたとおり、このグローバル社会において、全ての問題の把握は不可能に近い。だとすれば、どうすればいいのか。それは、“愛”を深める事を辞めない事と、“知”を磨くことを辞めない事だ。愛情が、知恵や知識を磨く動機になり、知恵や知識を磨けば磨くほど、愛情が深まる。愛と知は、常に相関関係になくてはならない。知識だけあっても、もし愛がなければ、その行動は非人道的な事にもなりかねない。行動が愛情に紐付いていなかった権力者が、どれだけ悲惨な行動を起こしてきたかは、歴史が物語っている。『愛』と『知』の大きさというのは、即ちその人間の“器の大きさ”となっていく。

外なる宇宙と、内なる宇宙。

このグローバル社会において、外の世界を知る事に限りはないが、内なる心の世界の事を忘れてはいけない。まずは1番身近な自分を知る事。そこから全ては始まる。世界は自分の鏡映しとよくいうが、その通りである。世界を諦めている人は、自分も諦めてる。自分を美しいと思える人は、世界も美しく映る。知を深めようと、外ばかりに目を向けていても、何もわからない。内なる世界に目を向けて、感じて味わう事が全ての原点になる。

幸せの在り方は十人十色と冒頭で述べたが、在り方ひとつひとつとっても、自分自身の歴史と紐付いている。何にどう感じて、どう思うのか。それは生まれて触れてきたすべてのものが、心の中で影響し合って、1人の人間の心の在り方になっているのだ。

有難いという感情に気付く事が、感謝する余地を生み、それが愛する心を作る。そして、その愛する心が、知りたいと思う心になり、何かしてあげたいと思う行動の動機になる。その結果、人との深い関わりができる。そのサイクルが、究極の幸せを感じさせる私なりの答えだ。

頭より心を動かす

私自身が幸せについて考える中で、つくづく感じたのは“心は頭では動かせない”という事。心と頭のギャップが人を苦しめる。頭でいくら考えても、心は依然として動かない。頭でっかちになってしまう可能性だってある。まずは、心を解放して、心の赴くままに。自分がやってみたいと思った事を、やってみよう。それは仕事じゃなくて遊びだって、なんだっていい。そして、そこで感じた自分の感情を素通りせずに、大切にしてみてほしい。そして、その感情を噛み締めてほしい。そこに、また新しい感情が湧き出してくるはずだから。

桜の様に美しく、桜の様に儚く。

どうせすぐに終わる人生、しっかりと噛み締めて、味わって、より多くの幸せを感じて散ろうではないか。一人でも多くの人がそう感じてくれれば、本望だ。

いいなと思ったら応援しよう!