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大学生活観察日記16 〈外側〉との扉

4/26(水)

昨晩はめちゃくちゃ寝ました。23時くらいには寝て、10時くらいに起きました。さっき起きたばかりです。まだまだぼんやりできそうです。
この日記を読んでくれている友人が昨日サンティアゴ・コンポステラへの巡礼に出発しました。スタート地点につくのに2日間かかると言っていましたから、今日はまだ移動中だと思います。

今日は久しぶりに雨が降っています。大学を休みにしている日に雨が降ってくれるのは嬉しい限りです。余計に外に出ることもないし、畑の野菜たちへの恵みになります。畑の野菜たちは、いや野菜に限らず草花たちも、水道水で水やりするより雨が降った時の方が大きく成長します。水の量も違うだろうし、空気中の窒素分を含んだ雨水が降るからって話もあります。窒素は肥料になります。まあなんだっていいのですが、植物たちは雨を気持ちよさそうに浴びている気がします。だから陽光も気持ちよく受けることができる。時折台風が吹いたり、天気が荒れたときは大変そうですが、でもしっかりと生きています。すごい。
サンティアゴに巡礼している友人も、そのように生きているように見えます。
話を聞くのが楽しみです。三十何日間か歩くそうです。その間にどんな出来事が起きるのか。以前の巡礼の話を聞くと、人生に広がりを持って生きたとき、いろんな意外な出会いが恵みになるのかもしれないと元気づけられます。広がりを持っていれば、「意外」ですらないのではないかと思います。

昨日は「坂口恭平日記 東京」という美術展に行きました。坂口恭平さんにはなんとなく本やnoteの文章を通じていつも助けられている気がします。彼も人生に広がりを持ってい生きている人だと思います。夜寝るときに気持ちが落ち着かないときは、彼が鬱状態の時に(坂口恭平さんは躁鬱を患っているそうです)書いた本を読んだり、枕元に置いておくと、落ち着きます。「坂口恭平日記 東京」は、不思議な空間でした。展示をやっている建物は都内によくある古びたトイレのない建物なのですが、展示の部屋に入ったら、なんか別空間のように清涼な空気が流れていました。絵を近くで見るときと遠くから見るときで、観えるものが全然違いました。僕は美術館とか行くと結構疲れちゃうことが多くて、あまり積極的に美術館には行かないのですが、「坂口恭平日記 東京」は全然疲れませんでした。気持ちよかったです。部屋には椅子があって、そこに座っているだけで落ち着いてきて、安心していく感じがありました。多分、美術館に展示されている絵と坂口さんの絵が違うのは、描いた人の念が入ってるかどうかなのか気がします。念が込められてると、僕は疲れちゃいます。坂口さんの絵はサラッとそのまま純真に描いてあるのかもしれません。でも、必ずしもサラッとしてるわけじゃなくて、結構しんどそうなのもありました。しんどそうというのは描いている坂口さんがです。僕は不思議と疲れませんでした。その絵と僕は目が合ってしまった感じがして、ドキッとしました。鏡に映る自分の目を見ている気持ちになりました。

この1週間で読んで面白かったのは、坂口恭平の「家族の哲学」という本と、「めぐりながれるものの人類学」という本です。どちらも僕らの住む世界の「外側」を描いているように思います。「外側」を描いているというか、外と内の狭間に立って、両方に触れながら、内に向けて出てくる言葉を紡いでいるような感じです。だから、外への扉って感じがします。
僕らはついどこか遠いところに行けば外側が観えると思ってしまいますが、遠いところに外側があるわけでもないように思います。僕らが当たり前に捉えている世界があるかぎり、というかそれを通用させてしまう限り、違うけど同じものを観ているのだと思います。「自分の当たり前が他人にとっての当たり前じゃないのだ」という言葉は、「多様性」という言葉と併せて標語のように使われていますが、僕にはその空気感はどうにもしっくりきません。「インクルーシブ」という言葉もセットで使われてしまっていて、画一性の匂いを感じます。自分の知っている世界に見ず知らずの相手を配置する。そういう感じがします。ポリアモリーという言葉があって、複数人と恋愛関係を築く人のことを指すようです。恥ずかしながら僕も若干その節はあるのですが、ここ数年はそういう自分とそれなりに付き合えています。でもわざわざポリアモリーとか名付けられるとうるせえなと思います。いちいち名前つけないと人の存在が認められないのかと思います。

「インクルーシブ」じゃなくて「エクスタシス」だと思います。エクスタシスは「外に立つ」っていうのが語源らしいです。未知を既知に位置付けて安全地帯からわかったふりをするんじゃなくて、未知が未知のまま触れに行って(それは怖いことでもあります)、そこで自分ごと変わっちゃうような、わけのわからないところで化学反応が起きちゃうような、そういうことをやっていかずして、外側もなにも見えないだろうと思います。

僕はそういう、「外側」との扉をやっているような人がなんか好きなんですね。人が好きというよりは、まあそういう人も好きなんですが、扉から観える景色に安堵を覚えます。扉から観える景色ってのは、扉の向こう側に観える景色だけじゃなくて、自分自身が扉になったときに観える景色でもあります。この世とあの世の狭間とか、こことどこかの狭間とか。
小さい頃からバイリンガルとか複数言語を話せる人を見るのが好きだったのですが、それは話し手が言語を切り替えるたびに何か世界を切り替えている感じがしたからだと思います。中学のときに英語を学び始めて、同時期に国語の授業で、言語が違うと観える世界が違うというのを学んで、英語をなるべくネイティブに近い感覚で話したいと思って英語好きになりました。今見ている世界と違う世界が現れるってのが面白くて仕方なかったです。
今、言葉の意味の外側に世界が広がっていることに関心が向かうのも、経済学の枠組みの外側で経済を捉え直したいと思うのも、そういう感覚があるのかもしれません。
自分で絵を描いていても、描いているうちにだんだん紙の外側に手が行ってしまいます。だから描いている紙の下にもう1枚紙を敷くのですが、下の紙にも描いているという気持ちが生じた途端にまたその紙の外側に行きそうになります。
家で時折一人で踊ったりもするのですが、そのときも部屋の外側に出たくなります。部屋の外側には出れば出られますが、そういう感じでもないのです。〈ここ〉の外側に出たい感じなのです。だから部屋の外側に普通に出たら、また元の部屋とか別の部屋に入りたくなります。

さて、話がいったいどこに向かうのかわからなくなってきました。
ひとまずここらへんで文章を終えて、noteに投稿していこうと思います。今日は水曜日なのでnoteに今週1週間分の日記を載せる日です。
一応そういうやり方にしたのは、他人の目は気にせず毎日好きなように書いて、水曜日にそれを検閲して投稿することで、安心して好きなことを書くことを保証するためだったのですが、先週水曜日は疲れて検閲をまともにしなかったので、なんとなく今週は人の目を気にして書いた気がします。まあ水曜日の自分に全て検閲を任せてたら大変だから、つい他の曜日の自分も検閲を担うようになっていたのでしょう。それはそれでいいです。
誰にも見せたくないことは誰にも見られないところに書き溜めますから。
他人に見られることを踏まえて書くと、極端にゴチャゴチャして自分でも混乱するということがあまりなくなって書きやすいところもあります。


補足:
そうそう!前学期にコロナ禍を題材にして1万5千字ほどのレポートを書きました。
「生命・医療倫理」という授業で提出課題となったレポートで、2500字以上で好きなテーマでと言われていたので、自分の強い関心に基づいてずいぶん長いレポートを書きました。
前学期に松嶋健先生という文化人類学者の授業を取って、ふとその先生について調べたらその先生のコロナ禍を題材にした論文の引用が出てきて、めちゃくちゃ面白そうだったから大学の図書館でその論文を借りて読んだら、これまでの自分のモヤモヤが晴れて、それに触発されてレポートを書きました。
そして、先日そのレポートをダメもとで松嶋先生に送って感想をお願いしてみたら、今日「是非読ませてもらいます」との返事が届きました。嬉しいです。お返事が楽しみです。

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