『マリーナ バルセロナの亡霊たち』刊行記念特別寄稿 オスカル&マリーナと歩くバルセロナ
『マリーナ』はゴシック・ロマンの香りあふれる青春ミステリー。「忘れられた本の墓場」シリーズで全世界の読者を魅了した作家カルロス・ルイス・サフォンが『風の影』に先立ち、初めてバルセロナを描いた小説だ。主人公は十五歳の寄宿生オスカルと、謎めいた館に住む少女マリーナ。靄と霧につつまれたこの都を舞台に、若いふたりは未知への冒険の旅にくりだし、知らず知らずのうちに過去の暗い影に追われることになる。
九月末の木曜日、オスカルとマリーナが歩いたバルセロナの通りを、訳者もたどってみた。その幻想と迷宮の都へ、短い旅ながら、読者のみなさんをご招待したいと思う。
¡Bienvenidos al mundo de Marina!
『マリーナ』の世界へようこそ!
物語の主な舞台は、山側のサリア地区と、海側の旧市街。オスカルとマリーナが出逢ったサリア地区にまず向かい、謎の発端になる“サリアの墓地”に足を向けた。数年前にも訪れたのに、またも墓地の門が見つからずに迷っていると、赤いワンピースの老婦人がふいに現れて、隠れた小道から墓地に入っていった。サフォンの魔法に早くもかけられたのか、オスカルとマリーナの目撃した“黒い貴婦人”が時を超えて現れたのか…。糸杉と霊廟、墓碑と十字架が立ちならぶ境内はひっそり閑として、訪れる人もいない。①
若いふたりの足跡をたどって、墓地裏のドクトル・ロウス通り②からボナノバ通りの北側にわたると、いまも豪奢な館が坂道ぞいに建っている。オスカルのかつての探検ルートだろう。マルジェナット通り、イラディエル通り、アングリ通りに囲まれる一角は、路地がどこも行き止まり。探索するうちに怪しげな袋小路が見つかった。“黒い貴婦人”の影に誘われるように入りこむと、石造りの廃屋があり、裏手の斜面のしたに鉄道の線路が垣間見えた。③
奇妙な“温室”があったのは、ひょっとして…? 線路のむこうに目をやると、陶土色の寄宿学校の小塔群がひときわ高く大空に映えていた。
オスカルの過ごした寄宿学校は、いまも若者たちの学び舎だ。④堅固な正門から坂道をくだり、ボナノバ通りを右に曲がって歩くうちに、サリア広場が見えてくる。⑤ 広場に面したパティスリー〈フォア〉の赤いひさしをくぐると、そこはスイーツの“おとぎの国”。オスカルとマリーナが幾度となく腰をおろしたベンチにすわり、視線をあげると、サリアの教会と鐘楼が静かにたたずんでいた。⑥
九月の“サリア”に別れを告げて、旧市街に向かうまえに、マリーナが父ヘルマンのつきそいで毎週行くという聖パウ病院に寄り道をした。広大な敷地に点在するレンガと装飾タイルの殿堂群、バルセロナの近代主義様式の建築を代表する世界遺産だ。⑦建物ぞいの通りを歩いていたら、亜麻色の長い髪の少女が横を通りすぎていった。昼下がりの光にすいこまれるように軽やかに去っていく少女の後ろ姿に、なぜかマリーナの幻影を見た気がした。
旧市街は三つの地区に分かれる。古代ローマ時代のバルセロナの揺籃であるゴシック地区。中世の海の男たちが住んだ海岸に近いリベラ地区。そして、かつての市壁の外で“場末”の名をとるラバル地区だ。
まずはゴシック地区の大聖堂へ。中世ゴシック様式の大伽藍を広場から仰いで、豪華絢爛たる結婚式を想像する。大聖堂の裏手は迷路のような路地がひろがり、石の壁面から奇怪な人物像や空想動物たちが道行く者を見おろしている。⑧石畳に目を落とすと、いわくありげなマンホール…。ゴシック地区の路地を縫い、ライエタナ通りをわたるとリベラ地区。謎の人物コルベニクの住んだプリンセサ通り三十三番から旧ボルン市場付近のベロ‐グラネル社までは歩いて三分もかからない。⑨ その旧ボルン市場からフランサ駅は目と鼻の先。バルセロナを舞台にしたサフォンの全作品に登場する伝説的なこの駅に、オスカルは度々足をおいている。⑬ゆるやかなカーブを描くホーム、空の青を映しだす広大な穹窿(ドーム)、高い円天井のホールで時を刻む時計も、多分かつてと変わらない。⑩
“海の聖母”を祀るサンタマリア・デル・マール教会⑪、旧商品取引所(リョッジャ)⑫にバルセロナの中世を偲びつつ、“リベラ”の細い路地からゴシック地区を抜けて、ランブラス通りへ。アルコ・デル・テアトロ通りのアーチをくぐるとラバル地区だ。光あふれるランブラスと対照的にラバルの裏通りには陽も入らない。 建物は陰にしずみ、見あげると細い空がどこまでもつづいている。まぼろしの王立大劇場はどこに…?
陰のラバルから再びアーチをくぐり、光のランブラスへ。港を背に通りをあがるうちにリセウ劇場が左手に現れ、歩道をはさんだ右手の建物を見あげると、颯爽と天空にむかうドラゴンがいた。⑬なんともチャーミングなそのドラゴン像の背後、隣接する建物の窓のむこうに、老医師シェリーと娘のマリアの影が通りすぎた。
活気と熱気あふれるボケリア市場からカタルーニャ広場へ。〈「みんな勝手なことを言うがね、こんな通りは世界中、どこの都市にもありませんよ、オスカルくん」〉ランブラス通りの人々を、市場を、花売りをながめて、うれしそうにほほ笑むヘルマンの言葉をしめくくりに、この短い旅を終えようと思う。⑭
オスカルとマリーナの歩いたバルセロナ、人生の冒険を生きた若いふたりと、過去の影たちがいまも息づくこの幻想の都に足をふみいれて、『マリーナ』の世界に浸っていただけたらうれしい。
(写真と文 木村裕美)
『マリーナ バルセロナの亡霊たち』
カルロス・ルイス・サフォン 著
木村 裕美 訳
スペインの巨匠・サフォンがバルセロナを舞台に描く
世界各国で読まれる大ベストセラー小説!
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